ハワイスペシャリスト限定ツアー
2024.07.01
ハワイスペシャリスト限定ツアー
アロハプログラムWeek in ハワイ2024【1日目】
2017年よりスタートした「アロハプログラム Week in ハワイ」。ハワイ州観光局とアロハプログラムキュレーターが自信を持ってご紹介する、他では味わえないディープなハワイを体験できる現地発着のツアーです。ハワイが大好きなメンバーが現地で繋がるアロハプログラムだけの特別ツアー!第6回目となる今年は、2024年6月14日(金)~20日(木)まで、オアフ島にて開催いたしました。期間中オアフ島では、太平洋諸島の先住民文化を祝う世界最大級のイベントフェスティバル・パシフィック・アート&カルチャーが開催されていました。
1日目のツアーをレポートいたします!
さて、本日より「アロハプログラムWeek in ハワイ2024」がこの時期らしいハワイの快晴の中、スタートしました。
初めてご参加いただいた方も、何度かご参加いただいたことがある方も、最初は少し緊張気味でしたが、ベテランキュレーター浅沼さんと一緒にあっという間にバスの中から打ち解けていらっしゃいました。
まずはモイリイリという場所にあるハワイ日本文化センターへ。ハワイへ渡った日本人について学びます。
まず途中に大きな鳥居が目に入りました。この鳥居は広島とハワイの姉妹都市を記念し、広島から送られたレプリカの鳥居だそうです。
到着後、プログラムマネージャー、スコット・キタノ氏から、ハワイ日本文化センターの役割を簡単に説明していただきました。彼もお母様の家系が日本にルーツを持つ日系4世です。
入口には「OKAGE SAMA DE」の文字と共に、「犠牲」「責任」「仕方がない」「頑張り」「我慢」などの石碑が並んでいます。不安と希望を抱えて異国、ハワイへ渡った人々が大事にしていた価値観や、当時の苦労などが伺える言葉です。
ここからは、「元年者」と呼ばれる150名ほどの日本人がハワイへ渡った1868年から、移民が終了する1924年までの日系移民の歴史を詳しく学びました。150名ほどの日本人は横浜や江戸から募集した人々だったため、農業には向いていませんでした。3年契約が終了した以降は、3分の1が日本へ戻り、3分の1が米国本土へ、3分の1がハワイへ残りましたが、ほぼ男性でした。その後1885年には国が認めた「官約移民」、ハワイが共和国として存続した5年間は「私約移民」、米国の法律適用の下で「自由移民」、1924年に米国で所謂排日移民法が制定されるまでは「呼寄せ移民」として、日本からの移民は、なんと合計22万人弱に及んだそうです。
展示されている当時の道具や写真から、過酷な労働環境や貧しい生活の様子、変わりゆく時代背景の中で必死に生きる日本人の強さを感じた方も多かったと思います。
一人の女性が働き手である何人もの男性のお弁当を作りました。その中で結婚相手を見つけていったそうです。
女性の数がとても少なかったため、家庭を持つために写真だけで結婚相手を決めなければならい、ピクチャーブライドも広まっていきます。後から入植した人は、日系人からも差別を受けていました。
日系人の子供達は日本語学校では日本語や習慣を学び、現地ではアメリカの伝統や価値観を学んでいました。
厳しい労働環境から1909年には日系人によるストライキが、1920年にはオアフ島でフィリピン人なども含め大きなストライキもありました。
日系2世は米国の忠誠を誓い、日本人ではなく米国人として二次世界大戦に自ら志願しました。その数2,600人。手作りで2,600名分の毛糸のレイを付けて、442部隊、100大隊として欧州戦線へと送られました。
戦後、ハワイに生還した2世兵士は、GIビルと呼ばれる復員兵に支給された資金を基に大学などの高等教育を受け、政治家、医者、弁護士、教育者や事業主になり、戦後のハワイを支えるリーダーとして貢献しました。
World war Ⅱ theater roomではダニエル・K・イノウエを含め、日系2世の方々の当時の思いや気持ちが、自身の言葉で語られているビデオを見ることができます。
1時間半、しっかり学んだ後は、新しいショップやレストランがどんどん増えているカカアコへ移動し、各々でランチタイム!!
その後、ビショップ・ミュージアムへと移動します。
今回はアロハプログラムWeek期間中、太平洋諸島の先住民文化を祝う世界最大級のイベント「フェスティバル・パシフィック・アート&カルチャー」が開催されており、その会場の一つでもあるビショップ・ミュージアムでも様々な展示やパフォーマンス、ワークショップなどが行われていました。
ビショップ・ミュージアムの入口では、まずビショップ・ミュージアムが誕生した歴史からスタートです。
正式名は、「バニース・パウアヒ・ビショップ・ミュージアム(Bernice Pauahi Bishop Museum)」。バニース・パウアヒはカメハメハ大王のひ孫にあたりハワイ州の大きな銀行の一つ、ビショップ・バンク(現ファースト・ハワイアン・バンク)を設立したことでも有名なチャールズ・リード・ビショップと結婚をしました。パウアヒが亡くなった後、夫のチャールズ・リード・ビショップによってこのミュージアムは建てられました。
その後カヒリルームでは、ハワイ王国7人の王、女王の肖像画や写真を見ながら、功績やその時代の出来事、日本との関わり、ハワイ王国誕生から米国になるまでの歴史を学びました。
ハワイアンホールでは数々の展示の中から、浅沼さんお勧めを紹介します。
クムリポ(創世記の神話)を表現した8枚の絵画
四大神の1人闘い・農業や漁業の神クーの姿。世界に3体あるうちの一つがここにあります。
ビショップ・ミュージアムでは常設展の他、特別展を行っており、何度行っても新しい文化、歴史に出会うことが出来ます。訪れた時は普段は保管庫にありお目にかかる事ができないというカメハメハ大王が着用していたアフウラが展示されていました。一同黄色の色の美しさに息をのみ、感動しました。
ビショップ・ミュージアムは毎回アロハプログラムWeekで訪れますが、何度訪れても新しい発見が出来ます。
ぜひハワイを訪れた際にはお出かけください。
・ハワイ日本文化センター
https://www.aloha-program.com/curriculum/lecture/detail/96
・ビショップ・ミュージアム
https://www.aloha-program.com/curriculum/lecture/detail/97
1日目のツアーをレポートいたします!
6/14(金)知ってみようハワイの文化と歴史
キュレーター:浅沼正和氏さて、本日より「アロハプログラムWeek in ハワイ2024」がこの時期らしいハワイの快晴の中、スタートしました。
初めてご参加いただいた方も、何度かご参加いただいたことがある方も、最初は少し緊張気味でしたが、ベテランキュレーター浅沼さんと一緒にあっという間にバスの中から打ち解けていらっしゃいました。
まずはモイリイリという場所にあるハワイ日本文化センターへ。ハワイへ渡った日本人について学びます。
まず途中に大きな鳥居が目に入りました。この鳥居は広島とハワイの姉妹都市を記念し、広島から送られたレプリカの鳥居だそうです。
到着後、プログラムマネージャー、スコット・キタノ氏から、ハワイ日本文化センターの役割を簡単に説明していただきました。彼もお母様の家系が日本にルーツを持つ日系4世です。
入口には「OKAGE SAMA DE」の文字と共に、「犠牲」「責任」「仕方がない」「頑張り」「我慢」などの石碑が並んでいます。不安と希望を抱えて異国、ハワイへ渡った人々が大事にしていた価値観や、当時の苦労などが伺える言葉です。
ここからは、「元年者」と呼ばれる150名ほどの日本人がハワイへ渡った1868年から、移民が終了する1924年までの日系移民の歴史を詳しく学びました。150名ほどの日本人は横浜や江戸から募集した人々だったため、農業には向いていませんでした。3年契約が終了した以降は、3分の1が日本へ戻り、3分の1が米国本土へ、3分の1がハワイへ残りましたが、ほぼ男性でした。その後1885年には国が認めた「官約移民」、ハワイが共和国として存続した5年間は「私約移民」、米国の法律適用の下で「自由移民」、1924年に米国で所謂排日移民法が制定されるまでは「呼寄せ移民」として、日本からの移民は、なんと合計22万人弱に及んだそうです。
展示されている当時の道具や写真から、過酷な労働環境や貧しい生活の様子、変わりゆく時代背景の中で必死に生きる日本人の強さを感じた方も多かったと思います。
一人の女性が働き手である何人もの男性のお弁当を作りました。その中で結婚相手を見つけていったそうです。
女性の数がとても少なかったため、家庭を持つために写真だけで結婚相手を決めなければならい、ピクチャーブライドも広まっていきます。後から入植した人は、日系人からも差別を受けていました。
日系人の子供達は日本語学校では日本語や習慣を学び、現地ではアメリカの伝統や価値観を学んでいました。
厳しい労働環境から1909年には日系人によるストライキが、1920年にはオアフ島でフィリピン人なども含め大きなストライキもありました。
日系2世は米国の忠誠を誓い、日本人ではなく米国人として二次世界大戦に自ら志願しました。その数2,600人。手作りで2,600名分の毛糸のレイを付けて、442部隊、100大隊として欧州戦線へと送られました。
戦後、ハワイに生還した2世兵士は、GIビルと呼ばれる復員兵に支給された資金を基に大学などの高等教育を受け、政治家、医者、弁護士、教育者や事業主になり、戦後のハワイを支えるリーダーとして貢献しました。
World war Ⅱ theater roomではダニエル・K・イノウエを含め、日系2世の方々の当時の思いや気持ちが、自身の言葉で語られているビデオを見ることができます。
1時間半、しっかり学んだ後は、新しいショップやレストランがどんどん増えているカカアコへ移動し、各々でランチタイム!!
その後、ビショップ・ミュージアムへと移動します。
今回はアロハプログラムWeek期間中、太平洋諸島の先住民文化を祝う世界最大級のイベント「フェスティバル・パシフィック・アート&カルチャー」が開催されており、その会場の一つでもあるビショップ・ミュージアムでも様々な展示やパフォーマンス、ワークショップなどが行われていました。
ビショップ・ミュージアムの入口では、まずビショップ・ミュージアムが誕生した歴史からスタートです。
正式名は、「バニース・パウアヒ・ビショップ・ミュージアム(Bernice Pauahi Bishop Museum)」。バニース・パウアヒはカメハメハ大王のひ孫にあたりハワイ州の大きな銀行の一つ、ビショップ・バンク(現ファースト・ハワイアン・バンク)を設立したことでも有名なチャールズ・リード・ビショップと結婚をしました。パウアヒが亡くなった後、夫のチャールズ・リード・ビショップによってこのミュージアムは建てられました。
その後カヒリルームでは、ハワイ王国7人の王、女王の肖像画や写真を見ながら、功績やその時代の出来事、日本との関わり、ハワイ王国誕生から米国になるまでの歴史を学びました。
ハワイアンホールでは数々の展示の中から、浅沼さんお勧めを紹介します。
クムリポ(創世記の神話)を表現した8枚の絵画
四大神の1人闘い・農業や漁業の神クーの姿。世界に3体あるうちの一つがここにあります。
ビショップ・ミュージアムでは常設展の他、特別展を行っており、何度行っても新しい文化、歴史に出会うことが出来ます。訪れた時は普段は保管庫にありお目にかかる事ができないというカメハメハ大王が着用していたアフウラが展示されていました。一同黄色の色の美しさに息をのみ、感動しました。
ビショップ・ミュージアムは毎回アロハプログラムWeekで訪れますが、何度訪れても新しい発見が出来ます。
ぜひハワイを訪れた際にはお出かけください。
・ハワイ日本文化センター
https://www.aloha-program.com/curriculum/lecture/detail/96
・ビショップ・ミュージアム
https://www.aloha-program.com/curriculum/lecture/detail/97