ハワイスペシャリスト限定ツアー
2024.07.05
ハワイスペシャリスト限定ツアー
アロハプログラムWeek in ハワイ2024【4日目】
2017年よりスタートした「アロハプログラム Week in ハワイ」。ハワイ州観光局とアロハプログラムキュレーターが自信を持ってご紹介する、他では味わえないディープなハワイを体験できる現地発着のツアーです。ハワイが大好きなメンバーが現地で繋がるアロハプログラムだけの特別ツアー!第6回目となる今年は、2024年6月14日(金)~20日(木)まで、オアフ島にて開催いたしました。期間中オアフ島では、太平洋諸島の先住民文化を祝う世界最大級のイベントフェスティバル・パシフィック・アート&カルチャーが開催されていました。
4日目のツアーをレポートいたします。
4日目も最高のお天気に恵まれました。今日はハワイ日系人の歴史を旅します。キュレーターは浅沼正和氏。2度目の登場です。
オアフ島の真珠湾の西側に位置するワイパフ(waipahu)はハワイに渡った日系人にとって、とても重要な場所の一つです。現在は新しい家も並び、近くにはホノルル高架鉄道「スカイライン」も通っていますが、1900年代前半にはシュガープランテーションが広がっていました。今回訪れたプランテーション・ビレッジはこの時代に働いていた様々な国の労働者の生活が分かる展示物が各国の住居に収められています。何のためにハワイへやってきて、どのようなものを持込み、どのような暮らしをしていたのか、各国の違いを見ることができます。
向かう車内では、ハワイ王国が崩壊し、米国準州となった1900年代に起こった出来事や、なぜ異国の労働者を必要としていたのか、そして日本人はなぜハワイを目指したのかなどを浅沼さんから説明を受けました。
まずはなぜ、ハワイでは移民を受け入れなければならなかったのか・・・。ゴールドラッシュや南北戦争などの影響でアメリカ本土での砂糖の需要が拡大していきましたが、ハワイでは西洋人の来島などの影響で様々な疫病も入り、それにより免疫のないハワイアンは病気等が原因で人口がどんどん減っていきます。砂糖産業の労働力を確保するためにハワイへの移民が必要となったのです。最初に来たのは中国人でした。それからポルトガル、日本、韓国、ノルウェー、プエルトリコ、フィリピンと広がっていきます。
次に日本からハワイへ移民の歴史について学びます。
日本は1866年に今でいうパスポートのようなもの(顔写真はなく、名前の他に見た目の特徴などが書かれていたそうです。)が発行されるようになり、日本人も海外に出て行けるようになりました。そこで横浜と江戸でハワイへの移民を募集し、1868年に150名ほどの日本人がハワイへ渡ることになります。ハワイではカメハメハ5世の時代にあたります。150名のうちハワイに残ったのは3分の1程度でした。のちに「元年者」と呼ばれるようになります。
その後、「官約移民」と呼ばれる明治政府が正式に認めた移民制度が開始され1894年まで続きます。この間に3万人弱がハワイへ渡りましたが、そのうちの多くは山口県と広島県からだったそうです。その間の1893年、王権を放棄せざるを得なくなりハワイ王国は消滅します。
ハワイ共和国時代に入った1894年からは「私約移民」として、又、1900年にハワイが米国に併合されてから1907年までは米国の法律適用の下で「自由移民」として、それ以降1924年に米国で所謂排日移民法が制定されるまでは「呼寄せ移民」として、日本からの移民は益々増え続け、合計22万人以上がハワイに行ったことになります。
基礎知識をたたき込んだところで、いよいよ到着です。
ビレッジには中国人、ポルトガル人、プエルトルコ人、フィリピン人、日本人の長屋、沖縄県の人、韓国人の家の7つの国の住居が復習、復元されています。
沖縄県は日本とは言葉も文化も異なることから別に扱われていました。
更に床屋や公共浴場、診察所や集会場、商店の他、ルナと呼ばれた現場を監督する人の家など、1つの共同体として生活していたことがよく分かります。
日本人は長屋に複数の家族が住んでいました。男性一人の生活から結婚し子供ができることで、部屋も増え、長屋で互いの家で作った料理を分け合ったり、助けあったりして、結びつきも強くなったのではないかと感じました。また子供達はビレッジ内の公立学校と日本語学校の両方に通い、公立学校ではアメリカの伝統や価値観を学び、日本語学校では日本語や習慣を学んでいました。そして家庭では「家の恥にならないように」と育てられていたそうです。
労働スケジュールは過酷で朝6時から仕事が始まり、午後4時半まで働いていました。過酷な状況下で、同じ言葉を話し、同じ文化を持つ人々が共同作業、生活を通して、お互いの心を通わせ、励まし合いながらたくましく生きてきたことを感じさせる場所でした。
当時の様子や、どのような生活を強いられていたかなど、深い内容を見て学ぶことができる貴重な場所でした。
帰りの移動も浅沼さんのこだわりが詰まっていました。サトウキビ列車をどうしても見てほしいとの思いから、カポレイまで足を延ばし、サトウキビ列車も写真に収めました。今もカポレイからコオリナまで走るハワイ州で唯一のサトウキビ列車だそうです。乗ってみたいものです!
・日系移民の歴史
https://www.aloha-program.com/curriculum/lecture/detail/28
・プランテーション・ビレッジ
https://www.aloha-program.com/curriculum/lecture/detail/148
4日目のツアーをレポートいたします。
6/17(月)【中級・上級向け】ハワイ日系人の歴史を旅する
キュレーター:浅沼正和氏4日目も最高のお天気に恵まれました。今日はハワイ日系人の歴史を旅します。キュレーターは浅沼正和氏。2度目の登場です。
オアフ島の真珠湾の西側に位置するワイパフ(waipahu)はハワイに渡った日系人にとって、とても重要な場所の一つです。現在は新しい家も並び、近くにはホノルル高架鉄道「スカイライン」も通っていますが、1900年代前半にはシュガープランテーションが広がっていました。今回訪れたプランテーション・ビレッジはこの時代に働いていた様々な国の労働者の生活が分かる展示物が各国の住居に収められています。何のためにハワイへやってきて、どのようなものを持込み、どのような暮らしをしていたのか、各国の違いを見ることができます。
向かう車内では、ハワイ王国が崩壊し、米国準州となった1900年代に起こった出来事や、なぜ異国の労働者を必要としていたのか、そして日本人はなぜハワイを目指したのかなどを浅沼さんから説明を受けました。
まずはなぜ、ハワイでは移民を受け入れなければならなかったのか・・・。ゴールドラッシュや南北戦争などの影響でアメリカ本土での砂糖の需要が拡大していきましたが、ハワイでは西洋人の来島などの影響で様々な疫病も入り、それにより免疫のないハワイアンは病気等が原因で人口がどんどん減っていきます。砂糖産業の労働力を確保するためにハワイへの移民が必要となったのです。最初に来たのは中国人でした。それからポルトガル、日本、韓国、ノルウェー、プエルトリコ、フィリピンと広がっていきます。
次に日本からハワイへ移民の歴史について学びます。
日本は1866年に今でいうパスポートのようなもの(顔写真はなく、名前の他に見た目の特徴などが書かれていたそうです。)が発行されるようになり、日本人も海外に出て行けるようになりました。そこで横浜と江戸でハワイへの移民を募集し、1868年に150名ほどの日本人がハワイへ渡ることになります。ハワイではカメハメハ5世の時代にあたります。150名のうちハワイに残ったのは3分の1程度でした。のちに「元年者」と呼ばれるようになります。
その後、「官約移民」と呼ばれる明治政府が正式に認めた移民制度が開始され1894年まで続きます。この間に3万人弱がハワイへ渡りましたが、そのうちの多くは山口県と広島県からだったそうです。その間の1893年、王権を放棄せざるを得なくなりハワイ王国は消滅します。
ハワイ共和国時代に入った1894年からは「私約移民」として、又、1900年にハワイが米国に併合されてから1907年までは米国の法律適用の下で「自由移民」として、それ以降1924年に米国で所謂排日移民法が制定されるまでは「呼寄せ移民」として、日本からの移民は益々増え続け、合計22万人以上がハワイに行ったことになります。
基礎知識をたたき込んだところで、いよいよ到着です。
ビレッジには中国人、ポルトガル人、プエルトルコ人、フィリピン人、日本人の長屋、沖縄県の人、韓国人の家の7つの国の住居が復習、復元されています。
沖縄県は日本とは言葉も文化も異なることから別に扱われていました。
更に床屋や公共浴場、診察所や集会場、商店の他、ルナと呼ばれた現場を監督する人の家など、1つの共同体として生活していたことがよく分かります。
日本人は長屋に複数の家族が住んでいました。男性一人の生活から結婚し子供ができることで、部屋も増え、長屋で互いの家で作った料理を分け合ったり、助けあったりして、結びつきも強くなったのではないかと感じました。また子供達はビレッジ内の公立学校と日本語学校の両方に通い、公立学校ではアメリカの伝統や価値観を学び、日本語学校では日本語や習慣を学んでいました。そして家庭では「家の恥にならないように」と育てられていたそうです。
労働スケジュールは過酷で朝6時から仕事が始まり、午後4時半まで働いていました。過酷な状況下で、同じ言葉を話し、同じ文化を持つ人々が共同作業、生活を通して、お互いの心を通わせ、励まし合いながらたくましく生きてきたことを感じさせる場所でした。
当時の様子や、どのような生活を強いられていたかなど、深い内容を見て学ぶことができる貴重な場所でした。
帰りの移動も浅沼さんのこだわりが詰まっていました。サトウキビ列車をどうしても見てほしいとの思いから、カポレイまで足を延ばし、サトウキビ列車も写真に収めました。今もカポレイからコオリナまで走るハワイ州で唯一のサトウキビ列車だそうです。乗ってみたいものです!
・日系移民の歴史
https://www.aloha-program.com/curriculum/lecture/detail/28
・プランテーション・ビレッジ
https://www.aloha-program.com/curriculum/lecture/detail/148