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クヒオ王子
ハワイが米国に併合された後も活躍した王族の末裔が居た。
- 砂糖が米国に売れれば売れるほど繁栄をしたハワイ王国。しかし同時に欧米人中心の経済界は親米化し、小国であるハワイは、大国である米合衆国へと併合されていきます。そして、準州になってからのハワイには、米本土から多くの資本が流入します。その時代を生き抜いた王朝の末裔が、クヒオ王子でした。
ワイキキのダイアモンドヘッド側、カラカウア大通りが直接海に接するあたりをクヒオビーチと呼んでおり、その名の由来となった「クヒオ王子」の像が、聖オーガスチン教会の道路を挟んだ海側に、紺碧の太平洋の海原を背景にして建てられています。王子は、1810年までカウアイの王であったカウムアリイの血縁者として、カメハメハ五世の時代、1871年(明治4年)にカウアイ島コロアで生まれました。コロアと云えば、ニューイングランドから来島した西欧人が1835年に初めて砂糖農園を作った場所です。クヒオは、ハワイ王国第七代の王カラーカウアのお后「カピオラニ」の甥にあたり、幼年時代は王妃の養子(ハナイ)となり、ホノルルのロイヤルスクールとプナホウ校で教育を受けて育ちました。
クヒオ王子の銅像
捕鯨で繁栄した時代が終り、砂糖産業が国の一大産業になっていたハワイ王国は、1874年に第七代の王カラカウアの治める時代に入ります。王は晩年、若いクヒオ王子を、内務省を管轄する重要なポストに据えました。王国は米合衆国に向けて砂糖の輸出を増やすべく両国間の互恵条約締結に成功し、その繁栄を享受していきます。しかしカラカウア時代の後半は、西欧人が多くを占める砂糖農園主や輸出に携わる経営者の力が王権を揺るがすようになり、それらの農園主と貿易に携わる人達は、砂糖業の利権を守るべく米国への併合を主張し始めました。カラカウアが体調を崩しサンフランシスコのパレスホテルで客死した後、王権を引き継いだ妹のリリウオカラニ女王は、その二年後の1893年1月、米国への併合を求める親米派に対抗出来ず、王権を放棄するに至ります。クヒオ、二十一歳の時の出来事でした。
当時の米合衆国第二十四代大統領クリーブランドは、この王権放棄はハワイの人民の意志による出来事ではなく、米国公使による内政干渉ではないかとの疑問を呈し、米国によるハワイの併合を良としませんでした。その為、親米派の人々は、米国への併合は米合衆国が次の政権に移るまで待たざるを得ないと判断し、1894年7月4日米国独立記念日の日を選び、新憲法発布とハワイ共和国の誕生を宣言しました。
ハワイは、五年間、共和国として存続し続けましたが、その後、ワシントンでの政治の潮流が変わり、大統領が民主党のクリーブランドから共和党のマッキンリーに代わったことにより、ハワイは米合衆国に併合されます。1898年7月7日マッキンレー第25代大統領が、ハワイの米国への併合化法案に署名、同年8月12日イオラニ宮殿にてハワイ国旗が降ろされ星条旗が掲揚されました。正式には1900年(明治33年)に正式に米国の領土になり、サンフォード ドールが初代知事になると云う経緯をたどりました。
1898年4月25日は、米国がスペインに宣戦を布告。フィリピンで勝利し、グアムも米国軍に占領されましたが、これが併合化を早める要因にもなりました。
クヒオ王子(ビショップ博物館の展示物より)
王権を放棄せざるを得なかったリリウオカラニ女王は、その後も王国の復活を求め続けますが、1895年、王朝を取り戻そうとする動きが起こり一部の人々が蜂起、この事件でリリウオカラニ自身も反逆行為に対する隠匿の罪を問われ、その結果イオラニ宮殿二階に8ヶ月幽閉されてしまいます。クヒオも蜂起に加わり、共和国への反逆罪で逮捕され、一年近くの収監を余儀なくされたのです。その後も政治活動を継続していたクヒオは、欧州とアフリカを旅した後、1901年には、それまで属していたハワイアンの権利を守ろうとする党「ホーム ルール パーティー」から米国の共和党に転じ、その後、ハワイ準州選出の合衆国議員に選出され、ハワイの行く末を米国の首都ワシントンDCから見守る立場で活躍しました。1922年(大正11年)、50歳で他界。亡骸はホノルルのダウンタウンの山側、マウナアラの王家の墓に葬られています。
王国崩壊による数奇な運命をたどったジョナ クヒオ カラニアナオレ ピイコイ王子の名は、カラカウア系の王族の末裔として、ビーチの名ばかりでなくダウンタウン近くの連邦庁舎ビル、ワイキキの目抜き通りやカハラから東に延びる幹線道路の名としても残されています。王子の誕生日3月26日は「クヒオデー」と呼ばれ、ハワイ州の休日に指定され、ワイキキのカラカウア大通りでは、ビーチ沿いの銅像の前を通って毎年パレードが行われます。
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浅沼 正和Masakazu Asanuma担当講師
【インタビュー動画あり】
ハワイ在住通算27年目を迎える。2001年からビショップ博物館で日本語ドーセントのボランティアを始め、2003年に同博物館の会員組織を代表する Bishop Museum Association Council のメンバーに選出され、21年間務めた。他に、ハワイ日米協会理事やハワイ日本文化センターのBoard of Governor 等を務め、日布間の文化交流活動に従事している。海外の訪問国と地域の数は95箇所に及ぶ。