講座詳細
王族に関わる西欧人
ハワイはクック船長の発見により、西欧に広く知られる存在となった。
- 西欧の影響なくして、ハワイ王国の誕生と発展はなかったものの、その影響により一世紀弱の王国が終わりを告げることにもなった。
カメハメハ大王像の台座に刻まれたクック船長の帆船
1778年にクック船長の一行がハワイ諸島に到達し、サンドイッチ アイランドと名付けてから、ハワイには西欧人が渡来し、居住するようになりました。1820年には、キリスト教の宣教師がハワイに来島し、布教を始めます。
捕鯨の様子(ビショップ博物館の展示物より)
1859年にペンシルバニアで石油が発見される以前、欧米では灯を燈すのも機械油も鯨油が使われていましたので、大型の鯨を求めて捕鯨船が太平洋にも展開し、ハワイには1819年を皮切りに多くの捕鯨船が来航し、船員が上陸するようになりました。そして、1835年にはニューイングランドから来島した西欧人がカウアイ島コロアで砂糖農園を始めます。
1848年、カメハメハ三世は「グレート マヘレ」と呼ばれる土地の分配を行い、王国全体の三分の一の土地を王領とし、他をアリイ(首長)もしくは一般人へ分け与え、同時に外国人の土地所有も認めました。ハワイ島のパーカー ランチ等、広大な土地を得て酪農もこの頃始まっています。それまでネイティヴ ハワイアンの人々は、個人の土地所有の観念を持ち合わせていませんでしたが、外国人による砂糖や酪農の事業は、土地を所有出来たことにより拡大の一途をたどります。宣教師やその子孫も、砂糖産業や商業に携わるようになり、これらの西欧人は、ハワイの経済を支え国に繁栄をもたらしますが、王国の後期になると、その力は王権をも凌駕し、ついには王国を消滅させる方向に動いていきました。
その時代の変遷の中で、ハワイの歴史に大きく関わった西欧人、王国を支えて活躍した西欧人も多く居ました。ハワイ諸島を発見したクック船長、その後もハワイを訪れてカメハメハと親交を深めたバンクーバー船長、1795年にカメハメハがハワイ島からマウイ、オアフ島を攻め、手中に収めた際に活躍し、腹心の部下として大王の臨終にも立ち会ったジョン ヤング等、先ずは英国人がハワイの歴史に登場します。
バンクーバー船長(ビショップ博物館の展示物より)
三世の時代に王族の子弟の教育にあたった Cooke 牧師夫妻、三世の下で議員や大臣を務め、王国のハワイ語による1940年憲法制定にもたずさわった宣教師 Gerrit Judd 。又、ジャッドは、後に四世と五世として王となるアレキサンダー リホリホとロットの欧州派遣にも随行しています。
大王の曾孫バニース パウアヒ王女と結婚したニューヨーク州生まれのチャールズ リード ビショップは政界でも活躍しましたが、ハワイで最初の銀行を創っています。
チャールズ ビショップ(ビショップ博物館の展示物より)
そして、王国の終末の行方に大きく関わった米合衆国第二十四代大統領クリーブランド、二十五代のマッキンリー。
クリーブランド大統領
ホノルルの山手、マウナアラに在る王家の墓には、ハワイ王国の王や王妃、王女ばかりでなく、西欧人の墓も見られます。ジョン ヤング、チャールズ リード ビショップ、そしてスコットランド生まれで砂糖農園主ながらハワイ王国中期の外相を勤めたロバート ワイリー。王家に対して多大な貢献があったからこそ、王族と共に祀られているのでしょう。
-
浅沼 正和Masakazu Asanuma担当講師
【インタビュー動画あり】
ハワイ在住通算27年目を迎える。2001年からビショップ博物館で日本語ドーセントのボランティアを始め、2003年に同博物館の会員組織を代表する Bishop Museum Association Council のメンバーに選出され、21年間務めた。他に、ハワイ日米協会理事やハワイ日本文化センターのBoard of Governor 等を務め、日布間の文化交流活動に従事している。海外の訪問国と地域の数は95箇所に及ぶ。