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カアフマヌ
カメハメハ大王の妻、カアフマヌの王国社会への影響力とは
- ハワイ王国初期の急速な西欧化やキリスト教の定着に及ぼしたカアフマヌの存在は、かなり大きなものだったと考えられます。但し、カアフマヌは、マサチューセッツから来島したプロテスタントの宣教師は擁護したものの、カトリックには反対の立場を取ったとも伝えられており、その背景には、キリスト教の宗派間の対立や、ハワイ王国に対する米英仏など列強の駆け引きが見え隠れしているように思えます。
「カアフマヌ」はマウイ島のハナの生まれです。父の名はケエアウモク、母はナマハナ。1778年に英国のクック船長がハワイの島々を発見した頃、マウイ島の東端ハナの地域はマウイの王であるカへキリの影響下にはなく、カメハメハの叔父にあたるハワイ島のカラニオプ王の支配するところでした。この下でハナ地区を支配していたアリイがケエアウモクでした。カアフマヌの幼少時代はほとんど伝えられていませんが、10歳の頃にハワイ島でカメハメハの身の回りの世話をするようになったようで、二人の年齢差は20歳ほどでした。
カアフマヌ(ビショプ博物館の展示物より)
クック船長に続き、1790年代前半にはバンクーバー船長が複数回来島しており、他の西欧の探検船や貿易船もハワイを訪れていますが、それらの記録の中にカアフマヌがカメハメハ大王の隣に座っていた、との記載があります。カメハメハ大王の妻は、諸説あるものの、ビショップ博物館に展示されている系図では四人居たと記されています。その中で、王家の血統の、いわば中心的存在であったのは、後に大王の後継者として王に即位する二人の息子の母であるケオプオラニでしたが、上記の記録は、王国内での影響力が最も強かったのはケオプオラニではなく、カアフマヌであったことを示しています。又、大王が健在な時から、カアフマヌは、二世として王になる、若きリホリホの面倒を見る立場にもありました。
当時のハワイには「クヒナ ヌイ」と呼ばれる地位がありました。これは王に対して助言を行なう、かなり権限、支配力のあるものでした。1819年5月のカメハメハ大王の没後、カアフマヌは「亡き大王は自分をその地位に就けたかった」と二世に伝え、リホリホの承認を得て、大きな権力を握ります。
ハワイには「カプ」と呼ばれる社会規範があり、それにより男女の役割分担がはっきりと分かれていました。特に「アイカプ」と呼ばれる食事の規範があり、男女は共に食事はしない決まりでしたし、食して良いものも異なりました。これはポリネシア地域全体に存在した古来の習慣の一つでもあります。カアフマヌは、若い時から西欧人の行動に大いに興味を持っていたのでしょう。カメハメハ二世に女性と同じ場所で食事をさせ、その結果何も恐れるような事態にならなかったことから、これを切掛けにカプ制度は崩壊していったのです。1819年、宣教師が来島する数か月前の出来事でした。
1820年に宣教師が来島した後、ハワイでキリスト教が比較的現地との対立を起こさずに定着したのも、王国のトップの座に居たカアフマヌの意志が大きく作用していたと思われます。初の宣教師一行がハワイ島への上陸許可を求めた際、カメハメハ二世は、カアフマヌがその場に居ないことを理由に即答を避け、その後カアフマヌ自身が許可したとも伝えられています。そして1825年頃には明らかにキリスト教を擁護する立場を取り、日曜日にはカワイアハオ教会に通っていたようです。ビンガム師に英語の読み書きを習ったとも伝えられています。
ミッションハウス博物館の建物の一つ
写真提供:ミッションハウス博物館
ホノルルに移った宣教師のハイラム ビンガム師の一団が最初に布教を始めたカワイアハオ教会の隣に在るミッションハウス博物館には、カアフマヌが度々通った際に滞在していた室が今でも残されています。
カアフマヌが泊まったとされる室内
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浅沼 正和Masakazu Asanuma担当講師
【インタビュー動画あり】
ハワイ在住通算27年目を迎える。2001年からビショップ博物館で日本語ドーセントのボランティアを始め、2003年に同博物館の会員組織を代表する Bishop Museum Association Council のメンバーに選出され、21年間務めた。他に、ハワイ日米協会理事やハワイ日本文化センターのBoard of Governor 等を務め、日布間の文化交流活動に従事している。海外の訪問国と地域の数は95箇所に及ぶ。