講座詳細
ドゥワイト・ボールドウィン
医師として数千人のハワイアンの命を救ったマウイ島の宣教師
- ボールドウィンはマウイに赴任した宣教師。
- 医師としても活躍し、数千人のハワイアンを天然痘の被害から救った。
ハーバード大学で教育を受けた英才
ハワイ入りした初期の宣教師の中でも、マウイ島に赴任したドゥワイト・ボールドウィンは、今も広く敬愛される宣教師の一人。宣教師であると同時に医師としても活躍し、マウイ島やその周辺のモロカイ島、ラナイ島を伝染病から守り、多くのハワイアンの命を救ったことで知られます。
マウイ島ラハイナにあるボールドウィンの住居
ボールドウィンは1798年にコネチカット州で生を受け、ニューヨークで育ちました。1821年にイエール大学を卒業し、数年教職にあった後、ハーバード大学医学校で教育を受けます。その後、神学校を卒業し、聖職に就いたのは1830年。翌年6月、妻を伴ってハワイに到着しました。まずハワイ島で布教にあたり、35年、マウイ島初のキリスト教教会、ラハイナのワイオラ教会に着任しました。
ボールドウィンは、ラハイナを貫くフロント・ストリートに自宅を構えていました。当時はラハイナが、ハワイ王国の首都としても賑わっていた時代です。ボールドウィンは自宅のすぐ後ろに船員のための小さなチャペル、シーマンズ・チャペルも開き、そのチャペルには、カメハメハ3世やマウイ島郡長のホアピリなど要人も通っていたそうです。
また自宅の1室を、船員達の読書室として公開。これから長い航海に出る船員に蔵書を譲るなど、ボールドウィンは、ハワイアンだけでなく若い船員達の教育にも心をくだいた人格者だったようです。
天然痘からハワイアンを救う
ボールドウィンがハワイ入りした19世紀は、ハワイで数々の伝染病が猛威をふるった時期でもありました。捕鯨船や貿易船などが、西洋の病いを新たにハワイに持ち込み、それらに対し免疫を全く持たなかったハワイアン。凄まじいスピードで、ハワイアン人口が減ったのもこの時代です。
特に1848年からの数年は、麻疹や百日咳、インフルエンザが大流行。マウイ島には医師がごく少なく、しかも富裕層を看る医者はいても公衆衛生に関わる医者は皆無という状態でした。そんな厳しい状況下、自宅に診療室を設け、医師としての仕事も始めたボールドウィン。1853年、ハワイ全島で天然痘が大流行した時、ボールドウィンはすぐにラハイナを隔離したうえ、住民にワクチンを与えました。次いでマウイ全域やモロカイ島、ラナイ島にも同様の措置を施しました。
ボールドウィンの住居は博物館として公開中。観光客で賑うフロントストリートの真ん中にある
その結果、ほかの島々、たとえばオアフ島では数千人が天然痘によって死亡したのに対し、マウイ島での死亡数はわずか200人前後でした。その数だけを考えても、ボールドウィンの対応がいかに効果的だったかがわかります。
1868年、ボールドウィンは70歳の時に宣教師としての仕事から退きましたが、多くの宣教師のように故郷に戻ることなく、娘の住むホノルルで引退生活を送りました。1886年に88歳で亡くなり、その墓地はオアフ島最古の教会、カワイアハオ教会にあります。
なおボールドウィンが 1835年から1868 年まで暮らしたラハイナの家は、現在、ボールドウィン・ホーム博物館として、一般公開中(有料)。ボールドウィンがニューイングランドから持ちこんだオリジナルの調度品や、医療器具の数々、屋外の炊事場跡など、ボールドウィン夫婦と7人の子供達が暮らした当時の様子を、垣間見ることができます。
関連コンテンツ
⇒マウイ島(美術館/博物館)
⇒ダミアン神父(聖ダミアン)
ボールドウィン・ホーム博物館は週7日、公開中。金曜の夜にはツアーも。詳細はホームページで確認を。
(http://lahainarestoration.org/baldwin-home-museum)
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森出 じゅんJun Moride担当講師
【インタビュー動画あり】
オアフ島ホノルル在住。横浜出身。青山学院大学法学部卒業後、新聞・雑誌・広告のライターとして活動。1990年、ハワイ移住。フリーランスのジャーナリストとして活動する傍ら、ハワイの文化や歴史、神話・伝説、民間伝承を研究中。単に「美しいハワイ」にとどまらないハワイの奥深い魅力、真の姿を日本に発信すべく、執筆を続ける。イオラニ宮殿日本語ドーセントも務める。著書に「ミステリアスハワイ」(ソニー・マガジンズ刊)、「ハワイの不思議なお話」(文踊社刊)、「やさしくひも解くハワイ神話」(フィルムアート社刊)、「Hawaii 神秘の物語と楽園の絶景」(パイインターナショナル)がある。
森出じゅんのハワイ不思議生活 http://blog.goo.ne.jp/moridealex