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所用時間5min
2014.10.20

カメハメハ二世

1819年に大王が他界し、長男がカメハメハ二世として王に。

  • クック船長のハワイ諸島発見から40年余。ポリネシアの伝統と習慣であったハワイ古来の社会規範「カプ」制度が崩壊し、西欧化が進んでいきました。
     
  • 二世が王であった時代、1819年には二隻の捕鯨船がハワイに来航。そして翌年1820年には宣教師の一団がマサチューセッツより来島し、キリスト教と共に西欧文化がハワイにもたらされました


カ メハメハ二世の名は「リホリホ」。「とても熱い」とか「激しい」と云う意味ですが、ハワイアンの人々はそれぞれとても長く意味を込めた名を持っており、彼 の実の名は「カ ラニ ヌイ クア リホリホ イ ケ カプ」。「背後からは近寄ることが出来ない偉大な王」と云うような意味合いを持っています。リホリ ホはカメハメハ大王の死後約2週間後の1819年5月20日に、ハワイ島カイルアで二代目の王になりました。そして王になってからの名はもっと長くなりま した。

リホリホが王になった頃までハワイには昔から脈々と続いていた「カプ」と云う社会規範があり、その重要な一つに男女は共に食事はしない習慣がありま した。ところが、大王の妻であるカアフマヌが二世にカプ制度を止めるように求めたのです。彼はそれを受け入れなかったものの母ケオプオラニと弟のカウ イケアオウリが共に食事をとるのは咎めませんでした。しかし1819年11月には従兄弟のケクア オカラニの反対を押しきり、カイルアで他の王族の前で女性と席を共にして食事をしました。たちまちこのニュースは全島に広まり、カプ制度が崩壊しヘイアウ (祭祀場)と神々の木像が破壊されてしまう結果になりました。キリスト教の宣教師達が来島する数ヶ月前の出来事です。カアフマヌや母の影響もありカプ システムを止めキリスト教への道を開く結果になるのですが、カアフマヌ本人は西欧人の生活には興味を抱いたもののキリスト教に改宗したのは晩年のことだっ たのだそうです。

ところで、1819年にはハワイに2隻の捕鯨船が始めて来航。1820年の春にはマサチューセッツから宣教師の一団がハワイに到着しています。 1819年10月にボストンを出航してから160日ほどかけての航海でした。17名はハワイ島カイルアに残り、ハイラム ビンガム牧師の一行はホノルルに 移動し、1821年8月に現在のカワイアハオ教会の場所にハワイ初の教会を建てました。そして1822年1月にはハワイで最初の印刷を始めています。この 当時の光景は今でもミッションハウス博物館で垣間見ることが出来ます。

さて、二世は1823年 11月 にカママル妃と共に英国の捕鯨船に乗りロンドンへ向けての航海に出ました。オアフ島知事夫妻ボキ とリリハ、ジョン ヤングの息子が同行しています。しかしロンドンで、カマーマルは7月8日、王はその6日後に、はしかと思われる病気で命を落としてしまいます。  国王ジョージ四世の命により、王の遺体は名前と誕生日、死亡日が刻まれたマホガニーの棺に納められ、詩人 バイロンの甥にあたるバイロン公が同行して1825年5月11日にホノルル港に無言の帰国を果たします。カーヒリの飾られたカワイアハオ教会に一度安置さ れた後、イオラニ宮殿前庭にカマーマル王女と共に葬られました。

長い間外界から閉ざされていたハワイには、西欧人の来島とともに多くの病気もはびこるようになり、ネイティブ ハワイアンの急激な人口減少が起こりますが、2世の死はそれを象徴するような出来事でした。


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カママル

  • 浅沼 正和
    Masakazu Asanuma
    担当講師

    【インタビュー動画あり】
    ハワイ在住通算27年目を迎える。2001年からビショップ博物館で日本語ドーセントのボランティアを始め、2003年に同博物館の会員組織を代表する Bishop Museum Association Council のメンバーに選出され、21年間務めた。他に、ハワイ日米協会理事やハワイ日本文化センターのBoard of Governor 等を務め、日布間の文化交流活動に従事している。海外の訪問国と地域の数は95箇所に及ぶ。

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