講座詳細
ルナリロ
カメハメハ大王直系の王の時代は五代で終わりを告げました。
- 五世が後継者を指名せずに他界したため、ルナリロは、当時の憲法の定めるところにより、王家の血の流れる人の中から議会の選挙で選ばれた初めての王となりました。国王選挙の対立候補は、次の王となるカラカウアでした。
- ルナリロ王はリベラルな考えの持ち主で、高い教育を受け音楽や文学にも造詣が深かったとのこと。
1864年に五世が制定した憲法を、より民主的はものに修正しようと試みます。
結果、新憲法は議会を通過したものの、自身の早すぎる死により現実のものにはなりませんでした。
ハワイ王国六代目の王の名は「ウイリアム チャールズ ルナリロ」と云います。ルナリロの母「アウヘア ケカウルオヒ」は、カメハメハ大王の姪にあたり、カメハメハ直系の孫にあたる五世の亡き後は、ルナリロが王家の血筋の中で一番高位に位置する人になりました。
「ルナ」はハワイ語で上の方向を指す言葉で、「リロ」は失うことを意味し、合せて、視界に入らないほどの高いところにまで上る人、つまりとても高貴な人だ、と の意味合いを持つ名前です。因みに母の名「アウヘア」は「(彼は)何処へいったのか?」を意味し、カメハメハ大王の死を受けて名付けられたのだそうです。
五代目の王、カメハメハ五世が後継者を指名せずに亡くなったため、1873年1月1日に民衆(国民)による投票が行なわれ、ルナリロは過半数の票を獲得しました。そして1月8日には、王国憲法に則って議会による初の選挙が行なわれ、ルナリロが全票を獲得してカラカウアに勝利し、翌日にカワイアハオ教会で就任式が行われました。しかし健康を害し、わずか1年と25日の短期間在位の後、1874年2月に39歳の若さで肺結核を患い、亡くなっています。
カメハメハ三世の治める1850年代に盛んであった捕鯨は、石油の発見や鯨油の価格下落などの影響を受けて、その後は衰退し、ハワイ王国の経済は低迷していました。ルナリロ王は米国との互恵条約を結び、砂糖にかかる関税を撤廃しようと試みますが、その条件として王の示した真珠湾を米国に使用させる案にネイティブ ハワイアンの人々が反対し、条約締結は実現しませんでした。一方、オーストラリアとニュージーランドへ砂糖を輸出するための両国との互恵条約も計画しますが、短命のため交渉には至らず、頓挫しています。
高い教育を受け、音楽と文学にも造詣が深かく、民主的な思考と態度で「民衆の王」と称賛されていたルナリロ。亡くなる前に、四世のお后エマが病床のルナリロに自分を後継者に指名するように頼みますが、憲法上は王に指名権があるものの、人民による選挙を求めてそれを拒否し、五世に続き後継者を指名せずに亡くなりました。その結果、第七番目の王には、エマ王妃とカラカウアが候補者となり、選挙で戦うことになりました。
カワイアハオ教会に在るルナリロ王の墓
ルナリロは生前、人民の中に居たいとの意志も残したことから、亡骸は一度、マウナアラの王家の墓地に埋葬されたものの、1875年に再度カワイアハオ教会の敷地内に移され安置され、墓は現在もホノルルのダウンタウン、カメハメハ大王像のダイアモンドヘッド側に在る、カワイアハオ教会の門の右側に在ります。教会の門の横に在る石造りのチャペルのような建物がルナリロの墓です。
開設当時のハワイカイのルナリロ ホーム
(ビショップ博物館の展示物より)
現在のルーズベルト高校
一年余の在位期間ではありましたが、王ゆかりのものとしては、ルナリロ ホームがあります。王の遺言で創られたハワイアンのお年寄りのための老人ホームで、ホノルルのマキキ地区の山側、現在ルーズベルト高校が在るところに1883年に完成し、その後1927年にオアフ島の東、ハワイカイの現在の場所に移転しました。今はネイティヴ ハワイアンの人々だけでなく、ハワイのお年寄り全てのために使われています。ハワイカイのココマリーナのショッピングセンターに沿って山に向うルナリロ ホーム ロードと云う名の道路があるのをご存知でしょう。ホームはカイザー高校の隣に在ります。
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⇒カワイアハオ教会
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浅沼 正和Masakazu Asanuma担当講師
【インタビュー動画あり】
ハワイ在住通算27年目を迎える。2001年からビショップ博物館で日本語ドーセントのボランティアを始め、2003年に同博物館の会員組織を代表する Bishop Museum Association Council のメンバーに選出され、21年間務めた。他に、ハワイ日米協会理事やハワイ日本文化センターのBoard of Governor 等を務め、日布間の文化交流活動に従事している。海外の訪問国と地域の数は95箇所に及ぶ。