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ジョン・ヤング
カメハメハ大王に信頼され、腹心の部下になった英国人がいました。
- カメハメハによるハワイ諸島統一は、西欧人の助言と西欧の武器がなければ成し得なかったかもしれません。その重要な一人で腹心の部下になり、大王の最期も看取ったのがジョン ヤングでした。
- ジョン ヤングは、1744年英国ランカシャーの生まれ。米国船エレノラ号でハワイへ来航し、46歳の時にハワイ島に上陸。そのままハワイに残り91歳の生涯を終えました。
カメハメハ大王がハワイ島からオアフ島までを統一したのが1795年。意外なことに、そこには西欧人が参謀として大きな役割を担っていたのです。その名はジョン ヤング。ハワイアンの人々のあいだでは「オロハナ」と呼ばれていました。
1800年頃のジョン ヤング (ビショップ博物館の展示より)
1778年の終わり、越冬の為に北太平洋からマウイ島ハナ沖に戻ってきた英国海軍クック船長の探検船に乗る機会を得た若きカメハメハは、始めて見る西欧の船に大変興味を抱きました。その後ハワイ島の支配者となったカメハメハは、カイルアコナの南、ケアラケクア湾に寄港した米国船エレノラ号から一人で上陸した英国人 ジョン ヤングと、ハワイアンの襲撃を受けたフェアアメリカン号より助け出されたウェールズ生まれの船員 アイザック デービスの二人を陸に留め、彼らから大砲の使い方や帆船の操り方を習得します。大王がハワイの統一を果たす5年前の1790年のこと、米合衆国ではワシントンが初代大統領の頃にあたります。
ハワイ島西北部のカワイハエに「プウ コホラ」と云うヘイアウ(祭祀場)を造り、二人の力を借りつつ戦略を練ったカメハメハはマウイ島を手中に収めた後、1795年春にはオアフ島のワイキキからカハラのあたりに上陸し、敵の部族をヌウアヌパリに追い上げて絶壁から蹴落とし、島々の統一を進めます。オアフ島の観光地の一つ、強い風が吹き上げるので有名なヌウアヌパリが正にその決戦の場所だったのです。オアフ島攻略にはハワイアンのカヌーばかりでなく西欧の船も使われ、大砲は陸上でも移動しながら使えるように工夫されました。ヤングとデービスの他にも何人かの西欧人がこの戦闘に加わっていたとも伝えられていますが、大砲や西欧人の力がなかったらカメハメハのハワイ統一は成就出来なかったのかもしれません。
1930年頃のプウ コホラ(ビショップ博物館の展示より)
現在のプウ コホラ
その後デービスはハワイアンのチーフに妬まれ毒殺されてしまいますが、はじめは島からの脱出も考えていたジョン ヤングは後にカメカメハ大王の厚い信頼を受け、カワイハエに居を構え王家の血を受け継ぐハワイアンの女性と結婚し、91歳で亡くなるまでハワイの為に尽しました。ハワイに寄港した外国船との通訳として交易の交渉をしたり、来島したキリスト教の宣教師を手厚くもてなしたりした記録が残っています。英国海軍バンクーバー船長とカメカメハが親交を深めた際の通訳も勤めています。そしてオアフ島の知事も勤めていた時期もありました。
1795年頃のバンクーバー船長
(ビショップ博物館の展示より)
カメハメハ大王 (写真提供:ビショップ博物館)
このジョン ヤングの孫娘エマはカメハメハ四世のお后となり、ハワイ王国中期に新たな活躍をすることになります。コナで大王の最後を看取った腹心の部下の一人でもあるヤングの亡骸は、ホノルルのダウンタウンの丘に在るマウナアラの王家の墓地に今も安置されています。
エマ王妃(写真提供:ビショップ博物館)
マウナアラの王廟
ジョン ヤングの墓
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浅沼 正和Masakazu Asanuma担当講師
【インタビュー動画あり】
ハワイ在住通算27年目を迎える。2001年からビショップ博物館で日本語ドーセントのボランティアを始め、2003年に同博物館の会員組織を代表する Bishop Museum Association Council のメンバーに選出され、21年間務めた。他に、ハワイ日米協会理事やハワイ日本文化センターのBoard of Governor 等を務め、日布間の文化交流活動に従事している。海外の訪問国と地域の数は95箇所に及ぶ。