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所用時間5min
2014.11.01

ハワイ プランテーション ビレッジ

王国後期以降のハワイに繁栄をもたらした産業とは

  • ハワイ王国での砂糖産業の隆盛がなかったら、日本からの多くの移民の流入、そしてハワイでの日系人の悲喜こもごもの歴史は生まれなかったでしょう。

それは砂糖産業でした。ハワイ王国後期の経済を支えた砂糖農園は、1900年にハワイが米国の準州になってからも更にその規模を拡大していきました。その当時、農園に入植した移民の家々が残され、その生活を垣間見ることの出来る格好の場所が、オアフ島の真珠湾の北西、ワイパフに在るハワイ プランテーション ビレッジです。

ハワイのサトウキビ農園での労働に従事した、中国、ポルトガル、プエルトリコ、フィリピン、そして日本と沖縄の人々の家々が見られます。日本と沖縄の生活習慣と文化は別々にとらえられていて、それぞれの家と生活必需品が展示されています。その頃の雑貨屋、日本の風呂屋や豆腐屋も残されていて、自国から持ち込んだ生活様式や食習慣がそのまま生かされ、更にお互いの地域の文化が混ざり合っていった様が容易に想像出来ます。 

中国人の家

1835年にニューイングランドから来島した西欧人によって、カウアイ島コロアで始まった砂糖産業は、1848年にカメハメハ三世が行なった土地の分配「グレート マヘレ」により土地の個人所有が認められたことにより拡大の一途をたどり、それまでハワイアンの人々が生活に必要なだけ植えていた砂糖キビは、砂糖農園での大規模栽培に変化していきます。1849年には米合衆国とハワイ王国との和親条約が結ばれ、ゴールドラッシュに湧く米国西海岸への輸出増加が、砂糖生産に拍車をかけていきました。米国への輸出拡大の裏には、南北戦争(1861年から65年)による南部からの砂糖販売が途絶えたことも上げられます。米国へ砂糖をより売り易くするため、第七代目の王カラカウアは、1876年に両国間の互恵条約締結に成功し、ハワイから米国への砂糖輸出量は更に飛躍的に伸びていきます。


一方、ネイティヴ ハワイアンの人口は、西欧人の来島と共にもたらされた病気等が原因で減少の一途をたどり、1823年の推定数値13万人が1850年には8万人まで落ち込み、その後も更に減少を続けました。砂糖産業には多くの労働人口を必要としたため、ハワイ王国は1852年に外国からの入植者の受入れを決め、同年に中国から初の移民が来島。1864年にはカメハメハ五世がホノルル港に移民局を発足させました。日本からは、後に「元年者」と呼ばれる1868年の来島が最初ですが、「官約移民」と呼ばれる明治政府が正式に認めた移民制度が1885年に始まり、瞬く間にその数を伸ばしていきました。


ハワイ プランテーション ビレッジやハワイ日本文化センター、ビショップ博物館で、ハワイの日系人の歴史を紐解き、後世に残すべく活躍しておられたヨシタケさん(通称シゲさん)の話を聞いたことがあります。シゲさんは何年か前に亡くなりましたが、1922年(大正11年)にカウアイ島コロアで生まれ、オアフ島のワイパフ育ちでしたので、当時のサトウキビ農園での生活を良く覚えていました。
家では日本語を使い、6歳で学校へ行くまで英語は使わなかったそうです。近隣は、ほとんど日系人で、他にプエルトリコ、中国、フィリピン、ポルトガルの人々が住んでいました。オアフ砂糖会社が開いたワイパフ耕地は、砂糖精製工場を中心に周囲に広がり、眺めの良い丘の上には西欧人の支配人の家が在り、そこに登る道しか舗装されていなかったとか。公立小学校は耕地の東西に一校づつ在り、東側の学校は英語を解する子供のために後で建てられました。日本からの移民の心の支えにもなった寺も耕地の東西に在り、東の寺と呼ばれていたのが本派(西)本願寺、西の寺が曹洞宗で、現在も同じ場所に在ります。砂糖工場跡は現在WMCAの建物として残されていますので、お寺と共に当時の位置関係が分かります。

ワイパフ本願寺

シゲさんの話は、農作業に従事する移民の賃金の低さや苦労を今に伝える貴重な話でした。そのような情景を凝縮して残しているのがハワイ プランテーション ビレッジで、現在もシゲさんの後輩の方々が日本語ドーセント(案内人)として、日曜を除く毎日、園内を案内してくれています。 


20世紀半ばまでのハワイの経済は、現在のようなツーリズム中心ではなく、砂糖とパイナップルを中心とした農業と、基地を中心とした軍需産業で成り立っていました。その労働力となる人口の多くは、アジアからの移民とその子孫、とりわけ日系とフィリピン系の人々でした。

現在YMCAの施設として残されている、砂糖工場跡

付帯的な情報・発展情報

ところで、日本から移民としてハワイに渡り、砂糖農園で働いた一世の方々のほとんどは英語が解らない、ましてやハワイ語も解らない人達でした。しかし生活に欠かせない単語は耳で聞いて覚えました。その代表的な例が、耕地で働きながら歌った「ホレホレ節」の歌詞に残されていますので、その一節を「ハワイへの移民の歴史」に記しました。その他にも音で覚えて使われていた単語はたくさんありましたが、例えば「ダンビロ」とか「ダンブロ」。丘の上から下を指して「向こう」と云う時などに使います。音から想像してみて下さい。 
英語の “Down below” が訛った言葉です。

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  • 浅沼 正和
    Masakazu Asanuma
    担当講師

    【インタビュー動画あり】
    ハワイ在住通算27年目を迎える。2001年からビショップ博物館で日本語ドーセントのボランティアを始め、2003年に同博物館の会員組織を代表する Bishop Museum Association Council のメンバーに選出され、21年間務めた。他に、ハワイ日米協会理事やハワイ日本文化センターのBoard of Governor 等を務め、日布間の文化交流活動に従事している。海外の訪問国と地域の数は95箇所に及ぶ。

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