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2014.12.09

ジョン万次郎

ハワイ王国をその目で見た日本人がいました。

  • 十九世紀半ば。ある意味では「捕鯨」をキーワードにして、日本とハワイ王国、米合衆国の歴史がつながっていく時期でもありました。
     
  • 咸臨丸のホノルル入港中、カメハメハ四世を表敬したのは木村摂津守喜毅。勝麟太郎等5名が随行し、通訳は中濱万次郎でした。



ジョン万次郎とその貢献

 

1841年、日本の漂流民5名が鳥島で救助され、ハワイに。その一人が、土佐中ノ浜生まれの万次郎でした。ハワイ王国をその目で見た日本人の一人です。

万次郎

江戸時代、陸地が見える範囲で日本の近海を航行していた運搬船や漁船は、いったん天候が荒れて沖に向かって強風が吹けば、流されて乗員の命を落としかねない状況でした。ところが十九世紀半ばになると、多くの捕鯨船がハワイを中継基地として北太平洋に展開し、鯨を求めて北海道から琉球、小笠原周辺でも操業するようになり、漂流民が米国籍の捕鯨船に救助されるケースも出てきました。

 

万次郎14歳の時、天保12年(1841年)1月、土佐宇佐浦の筆乃丞(後の伝蔵)、重助、五右衛門の三兄弟と寅右衛門、万次郎の5人が乗り込んだ舟が、はえ縄漁の最中に急に吹き出した強い北西風にあおられ沖へ流され、無人島だった鳥島に流れ着きました。万次郎の曾孫にあたる中濱博さんの著書「中濱万次郎」には、この年は黒潮が南に大蛇行していたため、万次郎等を乗せた小舟は鳥島までたどり着けた、と書かれています。

 

幸いなことに、5ヶ月後に米国マサチユーセッツ州ニューベッドフォードの捕鯨船ジョン ハウランド号に救助され、その年の11月にホノルルに上陸しました。ハワイはカメハメハ三世が治めていた時代。ハワイに来島した最初の宣教師の一人、ビンガム牧師が布教を始めた場所に、今のカワイアハオ教会の母体が建てられたのが1842年ですので、万次郎達は港に上陸後、完成間近の教会をその目で見ていたのかもしれません。

古い時代のカワイアハオ教会(アウトリガーホテルに展示されている写真より)

他の4人をホノルルに残し、船長にその利発さを認められた最年少の万次郎だけが再度捕鯨船に乗りこみ、その後マサチューセッツのフェアヘヴンで暮らした話は皆さんの知るところですので割愛するとして、1850年にホノルルに三度目の寄港をした万次郎は、ホノルルで船員に援助の手を差し伸べていた旧知の牧師、サミュエル デーモン師の助けを借りて小さなボートを買い、伝蔵、五右衛門とともに上海行きの船に乗り、沖縄、糸満の浜に上陸して10年ぶりの帰国を果たしました。

 

ところで、日本の漂流民がハワイに上陸したのは万次郎達が初めてではありません。1868年にハワイに到着した、後に元年者と呼ばれた人達が、自分の意思でハワイに渡った最初の人達でしたが、それ以前に漂流民がハワイに上陸しています。記録に残る最初は、カメハメハ大王がハワイ島からオアフ島までを統一した後の1806年のこと。漂流した安芸の稲若丸の8名が米国の捕鯨船に救助されホノルルに運ばれています。1832年には越後早川村の難破船が、オアフ島の西南端、現在のバーバーズポイントにたどり着き4名が救助されました。そして、マサチューセッツ州ナンタケット島の捕鯨船ジェームスローパー号に助けられて1839年にハワイ島ヒロに着いた富山の運搬船、長者丸の治郎吉が、帰国後その記憶をたどって証言したものを記録した「番談」には、当時のハワイの様子が絵図と共に詳しく描かれています。

ビショップ博物館所有の番談の写本にあるハワイ諸島図

さて、帰国後の万次郎の話に戻ります。カメハメハ三世が死去する前の年にあたる1853年(嘉永6年)、米合衆国東インド艦隊司令官ペリーが浦賀へ。黒船の到来です。幕府は、米国を熟知し英語も堪能な万次郎を土佐から江戸へ呼び対応にあたらせます。翌年の日米和親条約(神奈川条約)締結時の交渉では、中濱万次郎が直接通訳を仰せつかる機会はありませんでしたが、その後、日米間で活躍し再度ホノルルにも足を延ばす機会に恵まれます。

 

日米修好通商条約の批准書交換のため、使節団が米国船ポーハタン号でサンフランシスコ経由ワシントンに向かうことになり、この時、福沢諭吉等と共に中濱万次郎も乗り込んだ咸臨丸も、日本の船として初めて「パシフィックオーシャン」を渡るべく、1860年2月に東京湾を出て、大荒れの冬の太平洋を一路サンフランシスコに向いました。通弁方として乗り込んだ万次郎ですが、航海中ずっと船酔いに苦しんだ他の日本人乗員を尻目に、捕鯨船に乗りこんだ経験を活かして咸臨丸を無事サンフランシスコまで航行させました。

咸臨丸

咸臨丸は米西からの帰路、薪水の補給のために同年5月にホノルルに寄港し、万次郎はデーモン牧師と再会を果たします。そして、使節団副使であった軍艦奉行の木村摂津守喜毅等がカメハメハ四世に謁見。万次郎が同行し通訳を勤めていますが、この時、四世から、日本からの移民を求める発言がなされています。カメハメハ三世時代、ハワイ王国の経済を担っていた捕鯨は、1859年にペンシルバニアで石油が発見された後に鯨油価格が暴落し、減少の一途をたどっていきますが、一方で砂糖産業が広まっていきました。その結果、農園での労働力が必要となり、ハワイ王国は外国からの労働移民の受入れを模索する時代に入っていたのです。

カメハメハ四世(ビショップ博物館の展示物より)

ジョン万次郎が直接見たハワイ王国と米国。幕末の日本にとって、長崎経由オランダからもたらされた情報とは比べものにならない、貴重なものであったに違いありません。

  • 浅沼 正和
    Masakazu Asanuma
    担当講師

    【インタビュー動画あり】
    ハワイ在住通算27年目を迎える。2001年からビショップ博物館で日本語ドーセントのボランティアを始め、2003年に同博物館の会員組織を代表する Bishop Museum Association Council のメンバーに選出され、21年間務めた。他に、ハワイ日米協会理事やハワイ日本文化センターのBoard of Governor 等を務め、日布間の文化交流活動に従事している。海外の訪問国と地域の数は95箇所に及ぶ。

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