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ヌウアヌパリ
貿易風が吹き上がる峠は、歴史に残る古戦場でした。何度も、何気なく訪れているポピュラーな場所にも、ハワイの歴史が隠されています。山の崩壊はさることながら、上記の歴史情報もヌウアヌパリに置かれた案内板を読めば一目瞭然の内容です。オアフ島の西、カウアイ島とニイハウ島がカメハメハの手中に収まるのは、ヌウアヌパリでの戦闘から15年後の1810年のことでした。カウアイ島の王カウムアリイとカメハメハ大王は戦闘をすることなく、ハワイ8島が王国の下に統一されました。
ホノルルのダウンタウンから北へ、カイルアに抜けるトンネルの上にそそり立つ崖、ヌウアヌパリは、カメハメハがハワイの島々を手中に収め、島々を統一した時の最後の戦場でした。
ヌウアヌパリから見るコオラウの峰
1790から91年にかけて、ハワイ島西北部カワイハエにプウコホラ ヘイアウ(祭祀場)を造り、英国人ジョン ヤングとアイザック デービス等の力を利用しつつ戦いの準備を着々と進めていたカメハメハは、1794年になり、マウイとオアフを支配していたマウイのアリイ「カヘキリ」が亡くなったことにより、島々の征服の意志を強く抱きます。
1795年2月にマウイ、モロカイ、ラナイの各島を手中に収めた後、カヌーに乗った大軍を率いてオアフ島のワイキキからカハラにかけて上陸し、現在のロイヤルハワイアンホテルのあたりに陣を設けました。そしてプウ オ ヴァエナ( Puʻu o waena 、現在のパンチボールの丘=国立太平洋記念墓地)、ホノルルのダウンタウンの山側、マウナ アラ(Mauna ʻala )へと敵の軍を追い、更にヌウアヌの谷まで大砲を引っ張り上げて4月にヌウアヌパリまで攻め上げ、そこで勝利し、ハワイ島からオアフまでの島々全てをその手中に収めました。
ヌウアヌパリに置かれた案内板には、『オアフも支配していたカヘキリの息子「カラニクプレ」の軍を、ここでカメハメハの軍が破った。この戦いを「カレレ カアナエの戦い」と呼ぶ』と書いてあります。アナエは魚の一種ボラの仲間、レレは飛ぶことを意味し、少なくとも400人がヌウアヌパリの絶壁から飛んで落ちて行ったと伝えられています。
1795年のヌウアヌパリでの戦闘の様子(展望台の案内板より)
ところで、強風が吹き上げることで有名なヌウアヌパリ展望台から見るコオラウ山脈北東側の長く続く絶壁は、緑の屏風のようにも見え、その美しい光景が人々を引き寄せます。雨が降れば山から流れ出た水が集まり、屏風のひだを無数の滝となって白く流れ落ちます。コオラウは元々ハワイ語で風上を意味します。
北太平洋の海を渡ってきた北東からの貿易風が山にぶつかり、上昇気流で雲を作り雨を降らせ、火山岩が何層にも堆積した山肌を侵食して、あのような絶壁が出来たのだと、以前から聞いていました。
強い風雨や山中から流れ出る水による侵食が生み出した景観であることは間違えではないのですが、どうやら絶壁はそもそも違う原因で出来たものだったのです。ハワイ諸島の各地では、30万年に一回程度の割合で山の崩壊による巨大な地滑りや、海底での地滑りが起こっています。オアフ島は、ワイアナエとコオラウの二つの火山から形成されていますが、コオラウの火山の山頂は現在のカイルアのあたりにあったと推測されています。その高い山が崩れて、地滑りにより崩れた岩は北東のはるか沖合にまで流れ、崩れ去った後の山肌が絶壁として残ったというわけです。こんなに大きな崩落が起これば、太平洋全体に巨大津波が押し寄せたことでしょう。30万年という周期ですが、氷期の終わりころ、海水面が一番低くなった時に、島や山自体が支えきれなくなって崩壊したのだそうで、我々が住む現在、その心配をする必要はなさそうです。
ハワイ諸島での崩落による地滑り(ビショップ博物館の展示物より)
19世紀、王の住むホノルルと島の北東部(ウインドワード)の間を行き来するには二つの方法がありました。一つはカヌーや船で島を半周する行き方で、もう一つはヌウアヌの峠を通る険しい道を歩いて移動する方法でした。人々は、この道を通り、タロイモやポイ、豚や鶏などの食物をホノルルに運んだり、「カエレレ」と呼ばれる飛脚のような人が走って物を運んだりしていましたが、海を廻るよりは時間はかからないものの危険極まりない山道でした。
昔の峠道(ヌウアヌパリ展望台の案内図より)
カメハメハ三世が治める時代の1845年になり、ようやく峠の道は石で固められ、馬やラバによる輸送が可能になり、今のカイルアのあたりからホノルルまでの道のりは3時間程に短縮されました。その後、自動車が通れる道が整備され、1957年になって現在のハイウェイが完成しました。
1935年の峠道(ヌウアヌパリ展望台の案内図より)
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浅沼 正和Masakazu Asanuma担当講師
【インタビュー動画あり】
ハワイ在住通算27年目を迎える。2001年からビショップ博物館で日本語ドーセントのボランティアを始め、2003年に同博物館の会員組織を代表する Bishop Museum Association Council のメンバーに選出され、21年間務めた。他に、ハワイ日米協会理事やハワイ日本文化センターのBoard of Governor 等を務め、日布間の文化交流活動に従事している。海外の訪問国と地域の数は95箇所に及ぶ。