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カイウラニ王女
ハワイ王国第8代リリウオカラニ女王の姪、カイウラニ王女は本名をヴィクトリア・カイウラニ・カラニヌイアヒラパラパ・カヴェクイ・イ・ルナリロ・クレッグホーンといい、1875年10月16日にオアフ島ホノルルにて、父はスコットランド人のビジネスマン、またオアフ島の最後のロイヤルガバナーのアーチボールド・スコット・クレッグホーン 、母は高位酋長ケポオカラニ(カメハメハ1世の従兄弟)の家柄を持つ皇族の王女、ミリアム・カピリ・ケカウルオヒ・リケリケの間に生まれ、カイウラニ王女は生まれながらにして、皇太子妃でした。時は、叔父のカラカウア王の時代でした。母リケリケ王女の兄はハワイ王国第7代のカラカウア王であり、姉は第8代のリリウオカラニ女王です。母はカイウラニ王女が11歳の時に亡くなったため、リリウオカラニ女王の後継者になり、次世代の女王として多くの期待を背負いました。
カイウラニ王女;イギリスのジャージーでの写真。Photo Credit: Hawaii State Archives
カイウラニ王女は幼少3年間、イオラニ宮殿の近くのクィーン・エマ・ストリートに住んでいました。その後父が購入した土地であり、後にゴッド・マザーであったルース王女より、誕生の時に譲り受けた「アウアウカイ」と呼ばれていたワイキキの10エーカー(約40,468㎡)の土地に、父が建てられたヴィクトリア調の2階建ての白い家に移り住みました。アウアウカイは後に母により「アイナハウ」と名付けられ現在のプリンセス・カイウラニ・ホテルはその土地の南に位置し、エントランスのドライブウェイだったという大きな土地でした。この土地には芝生のテニスコート、クロケットコートなどもありました。幼少期の王女は、この土地で乗馬、またすぐ前の海で、水泳、サーフィンを楽しんだと言われています。また、庭には王女の大好きだったたくさんのクジャクと香しいピカケの花に囲まれていました。アイナハウには父により植えられた大きなバニアン・ツリーが植えられ、その成長は著しく、家族や、仲良しのロバート・ルイス・スティーブンソンとの団欒の場にもなりました。
1883年8歳の時にルース王女が亡くなり、1887年2月、11歳の時には母リケリケ王女が亡くなりました。その後は異母姉妹の姉アン・クレッグホーンがカイウラニ王女を見守りました。翌年1888年、王女13歳の時に、将来の女王にふさわしい女性の教育を受けるために、イギリスのボーディングスクールへと旅立ちました。
アイナハウで大好きなクジャクにえさを与えているカイウラニ王女(右)そのすぐ横は異母姉のローズ・クレッグホーン。その横は友達のイヴァ・パーカー、左は婚約者だったの従兄弟デイビッド・カワナナコア王子1898年の写真:Photo Credit: Hawaii State Archives
学校では、勉強の他、母の家族より遺伝でもある音楽も楽しみました。また絵画を描くことも王女の楽しみの一つでもありました。
母国では1891年、叔父のカラカウア王が亡くなったため、叔母であるリリウオカラニ女王が誕生し、王女が16歳の時に、次の女王という後継者に選ばれました。1893年、リリウオカラニ女王の時にハワイ王国が滅亡し、女王の希望もむなしく、1895年には裁判により、捕らわれの身になってしまいました。そのことを遠いイギリスの地で聞いたカイウラニ王女はすぐにでもハワイに戻って来たいと思いましたが、すぐにアメリカ合衆国に行き、ニューヨーク、ボストン、ワシントンDCなどでハワイ王国の復興を訴えました。王女たったの17歳の時でした。そのかいあって、当時の大統領グロヴァー・クリーブランドに意向が伝わり、ホノルルへジェームス・ブラントを派遣し、王国の復興にも荷担してくれましたが、結局、夢に終わってしまいました。カイウラニ王女は1897年にやっと祖国ハワイに戻り、その後ハワイ王国は崩壊し、アメリカ合衆国の支配下にされ、1898年8月には準州になりました。
叔母のリリウオカラニ元女王からは、従兄弟であるデイビッド・カワナナコア王子、同じく従兄弟のジョナ・クヒオ・カラニアナオレ王子、または日本の明治天皇の皇族である東伏見依仁親王との縁談をハワイ王国存続のために勧められたと言います。カラカウア王が初めて日本を訪れた1885年には明治天皇に会い、姪のカイウラニ王女と東伏見依仁親王の縁談についての密談を赤坂離宮にて行ったと文献で残っています。カイウラニ王女は政略結婚ではなく、愛のある結婚を希望するということをリリウオカラニ元女王にあてて、綴っています。
1897年にはとても仲の良かった姉のアニー・クレッグホーンが29歳の若さで亡くなりました。1898年2月、イギリスでも一緒に教育を受けていた従兄弟のデイビッド・カワナナコア王子との婚約を発表しました。ホノルルに戻った後は、父のクレッグホーン氏とともに、王政復古を願っていましたが、ハワイがアメリカの準州になったことで、次第に健康を損ね、ハワイ島のワイメアで乗馬をしていた時に雨に濡れた事が引き金になり、ホノルルに戻っても病状は一向に良くならず、1899年3月6日に23歳の若さでこの世を去りました。
ハワイ王国最後の王位継承権を持った、まだ若い王女の死にハワイ国民は悲しみに暮れました。王女がこよなく愛したアイナハウの土地に、今でも王女の像が大好きだったクジャクとともに佇んでいます。
参考資料:
The Hawaiian Monarchy, by Allan Seiden Mutual Publishing
Kaiulani – Crown Princess of Hawaii, by Nancy Webb and Jean Francis Webb
Mutual Publishing
Princess Kaiulani of Hawaii, by Kristin Zambucka Mutual Publishing
Princess Victoria Kaiulani and the Princess Kaiulani Hotel in Waikiki, by Stan Cohen
カイウラニ王女、サンフランシスコでの写真:Photo by I.W.Taber, Photo Credit: Hawaii State Archives
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藤原 小百合 アンAnne Sayuri Fujiwara担当講師
【インタビュー動画あり】
アーミッシュキルトの盛んなアメリカ・オハイオ州の高校に留学中にアメリカン・パッチワークを習得。メリーランド大学学士号取得。その後ハワイに移住し、マウイ島のハナ・マウイ・ホテルで出会ったハワイアンキルトのベッドカバーに一目惚れをし、ハワイアンキルトを始める。2001年9月11日、ニューヨークで起きた同時多発テロ事件の犠牲者とその家族への追悼キルト、『千羽鶴 フレンドシップキルト』を全国のキルターとともに完成させ、2009年9月、9.11メモリアルに寄贈。2011年7月、ハワイで毎年開催される「キルトハワイ」において、オリジナルデザインの「マノアの森」キルトがグランプリ受賞。ハワイ、日本でのレッスンなど、伝統的なハワイアンキルトを広げるため、日々奔走中。15年以上、パシフィックリゾートの「キルトパラダイス」(http://www.holoholo.world/kawaraban/category/quilt/)を連載中。 日本でハワイアンキルト本を数冊出版。2006年よりホノルルフェスティバルにおける伝統的ハワイアンキルト展を毎年開催。2013年よりイオラニ宮殿の日本語ドーセントのボランティアを始め、現在ハワイ在住31年目。