講座詳細
ウルパラクア
ハワイアンの曲にも出てくるマウイ島の高原の牧場
- 西欧人来島後のハワイで19世紀に広がった放牧。そこで家畜を追う「パニオロ」の生活様式や音楽は、ハワイ文化の一つとして現代に伝えられています。
- そもそもハワイに最初に牛を持ち込んだのは英国のバンクーバー船長で、カメハメハに進呈しています。
マウイ島のリゾート、ワイレアの少し南、マケナから真東の方向に見渡せるハレアカラの山麓が ʻUlupalakua と呼ばれる地域です。
三千メートルの火山ハレアカラの西側、つまり貿易風の風下の斜面に位置するこの広大な傾斜地は牧場として使われていて、ワイン畑もあり、ビーチリゾートとは全く別世界のハワイが楽しめます。ポピュラーなハワイアンの曲「ウルパラクア」は、高原のひんやりとした気候の牧場で家畜を追う「パニオロ」=「ハワイのカウボーイ」を称えた歌です。西欧人がハワイにもたらした牛や羊、馬が飼育される広大な牧場は島々に点在し、そこで働くパニオロの生活は、現在のハワイ文化を支える重要な要素の一つにもなっています。
パニオロ(ウルパラクアに展示されている写真より)
山の風下の乾燥地帯であるウルパラクアは、西欧人来島前は乾性林に包まれた場所で、ハワイアンの人達がウアラ(スイートポテト)や、水田を必要としない種類のカロ(タロいも)を栽培していて、サンダルウッド=白檀の木も多く茂っていました。
クック船長のハワイ諸島発見後に、北米からラッコの毛皮等を中国で売りさばくために北太平洋を航行する帆船がハワイに寄港するようになり、香しい白檀の木を中国に運ぶと高値で売れることを知った西欧人の貿易商人は、ハワイの白檀も交易品の一つとして買い入れるようになりました。始めは物々交換だったのかもしれません。カメハメハ大王はそれにより利益を得ますが、一方で「カプ」制度を用いて白檀の伐採を規制します。しかし、その息子のカメハメハ二世は、他のアリイにも西欧人への販売権を認めてしまい、その結果、ハワイ諸島の白檀の木は瞬く間に枯渇していきました。
ウルパラクアでは、1845年以降に西欧人の手で砂糖キビ畑として開墾が始まります。カメハメハ三世による1848年の「グレートマヘレ」と呼ばれる土地分配制度により西欧人の土地所有が認められたことも、開発に拍車をかける要素になり、同時期、カリフォルニアで金が発見されると米大陸西部の人口が増大して、ジャガイモやトウモロコシの生産と輸出も増大していきました。そして、1856年、米国の捕鯨船メイン号の船長だったジェームス マキ―がこの土地を買い取り、その後西欧人の所有者が変わるなかで、二十世紀になるとこの土地は放牧地へと変わっていきました。
カラカウア王と集うマキー等(ウルパラクアに展示されている写真より)
ところで、島外から持ち込む牛などを船から降ろしたり、販売する作物や家畜を船で運び出した港がウルパラクア山麓の真下にありました。当時の船が停泊した入江は、ワイレアから南に下ったところにあるマケナ湾の一角、Makena Landing と呼ばれるところにあります。カホオラエ島とモロキニ島が間近に見える静かなビーチで、現在はシュノーケリングが楽しめる場所にもなっています。
マケナランディングのビーチ
ハレアカラの中腹 Kulaの町からウルパラクアにかけての道はジャカランダの並木になっていて、4月から5月になると道全体が紫に染まって見えます。そしてウルパラクアから道を更に南に下ると、通常の車では走ることも交差することも難しい、悪路と云っても過言でない険しい一本道がハレアカラ火山の南側に通じており、マウイ島最東端のハナへと続いています。
マケナランディングの案内板より
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浅沼 正和Masakazu Asanuma担当講師
【インタビュー動画あり】
ハワイ在住通算27年目を迎える。2001年からビショップ博物館で日本語ドーセントのボランティアを始め、2003年に同博物館の会員組織を代表する Bishop Museum Association Council のメンバーに選出され、21年間務めた。他に、ハワイ日米協会理事やハワイ日本文化センターのBoard of Governor 等を務め、日布間の文化交流活動に従事している。海外の訪問国と地域の数は95箇所に及ぶ。