講座詳細
アイザック デービス
ジョン ヤングと共にカメハメハ大王の腹心の部下になった、もう一人の英国人
- それまで地図上に存在しなかったハワイ諸島は、1778年にクック船長により発見され、西欧人の知るところとなりました。その後は、北太平洋を行き来する船の越冬地や中継基地として利用され、良きにつけ悪しきにつけ、ハワイはその影響を大いに受けることになります。その中で、カメハメハによる島々の統一、そして王国成立へと、歴史は動いていきました。
- ハワイ語でデービスは ʻAikake(アイカケ)、ヤングはʻOlohana (オロハナ=All Handsの意味)と呼ばれていました。
その名は Isaac Davis 。1756年、英国南西部ウエールズの港町ミルフォードヘヴン生まれ。同じくカメハメハの下でハワイに留まった英国人John Youngより12歳ほど年下にあたります。
クック船長がハワイ(サンドイッチ諸島)を発見してから10年以上が経過した1789年から1794年にかけて、二本マストの帆船Eleanora号で、米大陸と中国等との間の交易に携わっていた英国系米国人にSimon Metcalfe 船長が居ました。彼はマカオで交易品を売って、帆船を一隻買入れてFair American号と名づけました。
バンクーバー島西部のヌートカサウンドに戻った2隻の帆船は、ラッコの毛皮などを積み込んで、1789年冬にハワイを経由して中国へと再度向かいます。このフェアアメリカンに船員として乗り込んでいたのがアイザック デービス。エレノラに乗っていたのがジョン ヤングでした。
Simonの長男、Thomas が船長を務めていたフェアアメリカンは1790年3月、ハワイに到達したものの、ハワイ島北西部のカワイハエ近くでハワイアンに襲われ、一人を残し全員が殺害されると云う事件に遭遇。その時、ひん死の重傷を負いながらも生き残ったのがデービスでした。
父のサイモンは、マウイ島で交易の交渉に不満を持ち、ハワイアンのカヌーを銃撃した後、ハワイ島西部のケアラケクア湾に移動して、その日はエレノラに白檀を積み込んでおり、息子の惨事を知らずに中国へ向かったようです。
この惨事の後、エレノラから一人ハワイ島へ上陸したジョン ヤングは、船に戻りませんでした。フェアアメリカンが襲撃されたことと、ヤングが3月17日に上陸後、船に戻らなかったタイミングが符合します。
ヤングは、鳥を捕まえに陸に上がったとか、この時既にハワイ島に住んでいた数人の西欧人に、フェアアメリカンの行方を聞き出すために船長が上陸させたとか、伝えられていますが、この時、フェアアメリカン号の事件を耳にしたカメハメハが、メトカーフ船長からの報復を防ぐためにヤングを船に戻さぬように策を練り、誰も海へ出てはいけない「カプ」(禁制)を布いたのではないかと思われます。
カメハメハは、手に入れていた西欧の武器や大砲の使い方を知る必要がありました。島に留め置かれたデービスとヤングの命を守ることを約束し、かわりに2人はカメハメハに武器の使い方を教えます。そして、ハワイ島に寄港する外国船との交渉役としても働きますが、外国船が寄港している間は島から脱出出来ない様に見張られていたのが実情だったようです。
ロイヤルハワイアンホテルに飾られているハーブ カネ氏による、カメハメハ軍のワイキキ上陸を描いた絵。フェアアメリカンと思われる帆船が描かれている。
その後、ハワイ島からオアフ島までを統一したカメハメハ大王の下で、ヤングと共に大王の腹心の部下となったデービスが、オアフの知事を務めていた時でした。1810年、オアフより西にあるカウアイ島とニイハウ島も大王の元で王国の一部になる時期が訪れます。
カウアイの王カウムアリイが、2島を大王の手に委ねるか否かを決断している最中、デービスは、カメハメハ側の情報をカウムアリイ側に流したのではないかと疑われ、毒殺されてしまいます。同年4月の出来事で、その時デービスは52歳でした。
カメハメハ大王はデービスの死に大きなショックを受けたようですが、カウアイとニイハウは平和裏にカウムアリイ王から大王の手中に委ねられ、ハワイ八島全てがハワイ王国の領土となりました。
アイザック デービスとその子孫の墓碑は、ホノルルのダウンタウン、ヌウアヌ通りを登った丘の上、王家の墓地近くの、オアフ墓地に立てられています。
オアフ墓地に在るアイザック デービスとその子孫の墓標
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浅沼 正和Masakazu Asanuma担当講師
【インタビュー動画あり】
ハワイ在住通算27年目を迎える。2001年からビショップ博物館で日本語ドーセントのボランティアを始め、2003年に同博物館の会員組織を代表する Bishop Museum Association Council のメンバーに選出され、21年間務めた。他に、ハワイ日米協会理事やハワイ日本文化センターのBoard of Governor 等を務め、日布間の文化交流活動に従事している。海外の訪問国と地域の数は95箇所に及ぶ。