講座詳細
ハワイアン・レジェンド・サーファー~エディー・アイカウ
ハワイアンの伝統スポーツ、サーフィンの歴史に残る、デューク亡き後のハワイアン・レジェンド、エディー・アイカウについて
- 1960年代のサーフィン・ブームはカリフォルニア発信だった
- エディー・アイカウはワイメアのビッグウェーブ・サーファーとして60年代後半に有名になった初のハワイアン・サーファー
- ワイメア初のライフガードとして活躍
- 1978年、クルーとして乗船したホクレア号の事故で行方不明となる
- 死後、彼の海での勇敢さをたたえ「Eddie Would Go」というスローガンが有名になる
エディー・アイカウのドキュメンタリー映画「Hawaiian: The Legend of Eddie Aikau」
ハワイアンが何世紀も前から楽しんでいた、ボードで波に乗るスポーツ「サーフィン」は、デューク・カハナモクによって20世紀の前半にアメリカ本土やオーストラリアなどに伝えられました。デュークによって蒔かれた種は、1950年代後半になって米西海岸カリフォルニアを中心に始まったサーフィン・ブームとして花開きます。そしてカリフォルニア発信のサーフィン・カルチャーが席巻する60年代に突入すると、映画や音楽、雑誌、ファッションなどポップカルチャーの世界でもサーフィンが商品化されるようになりました。このカリフォルニア発信のサーフィン・ブームはあくまでも米本土の白人を中心としていたため、メディアに露出されるサーファーそして彼らのライフスタイルもカリフォルニアのもの、ハワイアン・サーファーも伝統ハワイ・カルチャーもこのブームの蚊帳の外でした。
波に乗るサーファーの映像をとらえたドキュメンタリー・フィルムが50年代後半から制作上映されるようになり、やがて1967年公開の「エンドレス・サマー」という大ヒット作品が生み出されますが、エンドレス・サマーを含むそれまでのどのサーフ・フィルムも、当時の白人サーファー・スターたちのオンステージでした。
この時代のそんなサーフィン界に彗星のごとく現れたハワイアン・サーファーがいました。
オアフ島ノースショア、ワイメア湾に40フィート級のビッグウェーブが入ったある日、世界のトップサーファーたちがワイメアのビッグウェーブに挑戦する姿をメディアが追います。白い肌のサーファーたちのなかでひときわ存在感を放ったのが、ひとりのハワイアンの若者でした。山のような大波を、誰よりもうまく、誰よりも沖からキャッチして鮮やかに乗りこなす姿が、何時間も繰り広げられたのです。彼こそが、後にサーフィン界の伝説の存在となるエディー・アイカウです。
ワイメアのライフガードとして働くエディー
サーフィン雑誌やライフ・マガジンにその大波を乗りこなす姿の写真やインタビューが掲載され、エディーは一夜にしてハワイアン・ビッグウェーブ・サーファーとして名を馳せます。1967年第3回を迎えたオアフ島ノースショア、サンセットビーチで開催のサーフィン大会デューク・カハナモク・インビテーショナル・サーフィン・チャンピオンシップには、初のハワイアン・サーファーとして出場、6位に入賞したエディーは、彼にとってのヒーロー、老齢の「現代サーフィンの父」デュークからトロフィーを手渡されます。それはまるで、ハワイアン・スピリットの聖火が次の世代に受け渡された瞬間のような出来事でした。(デュークはそれから数カ月後に他界)
海外のサーファーを含む多くの人が訪れるようになったノースショアにライフガードの必要性が高まり、エディーが初のライフガードに任命されます。冬は大波でとても危険なワイメア・ビーチでのライフガードの仕事は、彼の天職のようでした。どんなに危険な状態の海でも躊躇せず、それが誰であろうとも果敢に荒れる海に飛び込み救助をする彼の姿がありました。その後約10年の間にエディーが救った命は500を数えたといいます。
1977年、初出場から10年の年、30歳のエディーは彼にとって最も大事な大会デューク・カハナモク・サーフィン・チャンピオンシップで、ついに念願の優勝を果たします。テレビ・レポーターからコメントを求められたエディーは、マイクに向かってこう答えました。
「デューク・カハナモクが生きている間に優勝できたら良かったが、それは叶わなかった。このコンテストのなかではすっかり古株になったが、この日のためにずっと努力してきた。優勝を手にさせてくれた神に感謝する。これはすべてハワイアンに捧げるため、すべてハワイアンのためです。アロハ。」
エディーのハワイアン魂は、ハワイ人の誇りを象徴する航海カヌー・ホクレア号のタヒチ航海に彼を向かわせます。
1978年3月16日、クルーの一員としてエディーを乗せた伝統航海カヌー、ホクレア号がタヒチへの航海に向けて旅立ちますが、待っていたのは吹き荒れる強風と大荒れの海。ホクレア号はついにコントロールを失い、夜の海に転覆してしまいます。遭難したことを誰にも知られないまま、クルーたちは空腹とショックと寒さに震えながら漂い続け、救助されたのは翌日の深夜でした。救助されたホクレアのクルー・メンバーのなかにエディーがいないことを、ホノルルで待っていたメディアと家族たちは知ります。
エディーは転覆した翌朝、発見される希望を失いかけた仲間を救うのは自分だと信じ、積んでいた自分のボードをパドルして一人、水平線の向こうに島影見えるラナイ島に救助を求めて向かっていたのでした。その後行われた、大掛かりな捜索にも関わらず、エディーは発見されませんでした。
2年後、ホクレア号は再びタヒチ航海に挑戦、エディーの意志を引き継いだ若きハワイアン・ナビゲーター、ナイノア・トンプソンによって航海は成功。ホクレア号はエディーのスピリットに護られている、35年経った今も航海を続けるホクレア号について、ナビゲーター・ナイノア・トンプソンはそう語っています。
「Eddie Would Go」というスローガンがあります。「エディーなら行く」、どんな大波も華麗に乗ってみせたビッグウェーブ・サーファー、どんなに危険な海にも飛び込んで人の命を救ったライフガード、そしてホクレア号とクルーを助けるために一人パドルアウトした誇り高きハワイアン、エディー・アイカウを讃え、恐れや困難を乗り越えるための勇気を奮い立たせる言葉として知られています。
「クイックシルバー・イン・メモリー・オブ・エディー・アイカウ」2014-2015のポスター
ワイメア・ビーチにあるエディーの記念碑
補足情報
○エディー・アイカウを讃えるビッグウェーブ・サーフィン大会「クイックシルバー・イン・メモリー・オブ・エディー・アイカウが彼の死後1985年にスタート。今シーズン(2014~2015)が30周年の年となった。
http://quiksilver.com/surf/events/eddie-aikau/
○エディー・アイカウ伝記「Eddie Would Go, The story of Eddie Aikau, Hawaiian Hero」
○エディー・アイカウのドキュメンタリー映画「Hawaiian: The Legend of Eddie Aikau」が2013年に制作され各地で上映された後、全米スポーツ・チャンネルESPNで放映され、エディーの伝説は再燃している。
http://espn.go.com/30for30/film?page=hawaiian-the-legend-of-eddieaikau
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よしみ Nui だいすけDaisuke Yoshimi担当講師
【インタビュー動画あり】 1967年2月9日生まれ、神奈川県横須賀出身。1991 年よりハワイ在住。ハワイ大学卒業。フラ、ハワイ音楽に傾倒するハワイ・スペシャリストとして、ハワイを拠点に執筆・コーディネート活動を行う。ハワイのクムフラやミュージシャンとの親交も幅広い。フラダンサーとして、メリー・モナーク、キング・カメハメハの大会出場経験あり。著書に『たくさんのメレから集めた言葉たち』シリーズ、『LIVE ALOHA~アロハに生きるハワイアンの教え』がある。近年、フラダンサーを対象とした日本での講演・セミナー活動に力を入れている。
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