講座詳細
ケネス エモリー博士
ポリネシア考古学研究の歴史はそう古くない
- エモリー博士と篠遠博士の研究は、ネイティヴハワイアンの人々が、いつ頃どのように来島したのかを証明する貴重な学術的根拠になっています。
ポリネシアやオセアニアの考古学の研究が本格的に始まったのは、そう古い話ではありません。二十世紀になってから始まった新しい分野とも云えるでしょう。
そして、その第一人者はケネス エモリー博士 (Dr. Kenneth Pike Emory) 。1897年にマサチューセッツ州で生まれた氏は、大学卒業後1920年にホノルルのビショップ博物館の助手として研究を始めます。ミクロネシアでの研究から始め、その後タヒチやハワイでの発掘調査に臨み、太平洋の島々に住む人々が、どの地域から、いつ頃、どのようなルートで渡ってきたのかを、探究していきました。考古学や人類学の範疇や、年代設定も、まだ現在のように明確化されていなかった頃です。氏の研究は言語学や家系、血筋などの民俗学の調査から始められています。金田一京介氏のアイヌ語と文化研究にも似た研究手法ですが、これがその後のポリネシア考古学研究の基礎になっていきました。1923年と24年にはカウアイ島から西北西に240キロほど離れた「二ホア島」と、更に西北西に位置する「ネッカー島」(ハワイ語名 Mokumanamana)の二つの無人島の調査を行い、ネッカー島に残されていた祭祀場跡とタヒチ周辺やツアモツ諸島の祭祀場「マラエ」との類似性を指摘しています。
エモリー博士(写真提供:ビショップ博物館 篠遠喜彦博士)
ネッカー島で発見された石像(ビショップ博物館の展示物より)
ところで、エモリー氏の研究拠点でもあったビショップ博物館には、1941年12月の真珠湾攻撃の後の五年間、米軍の訓練施設として使われた、と云うあまり知られていない事実がありました。当時の様子を示す写真も残されています。
そして、戦後も続けられた永年の研究の結果、エモリー氏は1946年にイエール大学から博士号を得、語彙統計学のパイオニアとも目されています。
戦時中、軍の訓練施設として使われていたビショップ博物館(ビショップ博物館の展示物より)
さて、エモリー博士の下に共同研究者が現れます。篠遠喜彦博士です。1954年、カリフォルニア州立大学バークレー校への留学に向けて渡航中の篠遠氏は、エモリー博士がハワイ島南端で発掘をしているので見学するように、との電報を受取り、ホノルルで下船し、ハワイ島へ向かいました。それが切っ掛けとなってビショップ博物館でポリネシア考古学の研究に携わることになります。このあたりの、人生の岐路とも云える経緯は氏の著書「楽園考古学」に詳しく載っていますので、是非読んでみて下さい。
篠遠博士はハワイばかりでなく、タヒチやマルケサスでも発掘調査を進め、それぞれの島で発掘した釣り針の形態に着目し、ハワイのそれと年代別に比較し、マルケサスからハワイへのポリネシア人の移動時期を割り出し、ハワイにいつ頃人々が移り住んで生活し始めたのかを解明しました。
平凡社出版「楽園考古学」
エモリー博士と篠遠博士(写真提供:ビショップ博物館 篠遠喜彦博士)
1960年、ソサエティー諸島マウピティで発掘中のエモリー博士と篠遠博士(写真提供:ビショップ博物館 篠遠喜彦博士)
太平洋全体の人類学を深く研究し続けたエモリー博士は、1992年にホノルルで亡くなりました。氏の築き上げた学説は篠遠博士に引き継がれ、ネイティヴハワイアンがどのようにマルケサスやタヒチからこの島々にたどり着いたかが解明され、一方オセアニアからサモア、トンガにかけてのラピタ土器の発見と考察により、ポリネシアの人々がアジア系の祖先を持ち、中国南部もしくは台湾のあたりから南に移動してきた人々であることが、現在のポリネシア考古学の学説として強く支持されるまでに至っています。
70歳ころのエモリー博士(写真提供:ビショップ博物館 篠遠喜彦博士)
付帯的な情報・発展情報
「楽園考古学」は篠遠喜彦、荒俣宏共著。平凡社より出版されています。
篠遠喜彦博士は2017年10月4日、93歳で亡くなられました。
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浅沼 正和Masakazu Asanuma担当講師
【インタビュー動画あり】
ハワイ在住通算27年目を迎える。2001年からビショップ博物館で日本語ドーセントのボランティアを始め、2003年に同博物館の会員組織を代表する Bishop Museum Association Council のメンバーに選出され、21年間務めた。他に、ハワイ日米協会理事やハワイ日本文化センターのBoard of Governor 等を務め、日布間の文化交流活動に従事している。海外の訪問国と地域の数は95箇所に及ぶ。