講座詳細
第二次世界大戦の勇者を称える碑
ハワイの日系二世と第二次世界大戦
- 第二次世界大戦勃発同時、ハワイ準州の人口の約4割を占めていた日系人でしたが、戦時中に米国兵士として戦った日系二世の過酷な経験を経て、それまで一般に西欧系の人々と同等ではなかった日系人の米国内での地位が見直され、現在のハワイの礎となっていきます。
ワイキキに、第二次世界大戦で戦った日系兵士を称える碑があります。
日系兵士を称える碑
戦後70周年をむかえ、平和教育に勤しむ教育旅行の参加者や家族連れが、過去を振り返り勉強する場として、ハワイで先ず頭に浮かべるのは真珠湾でしょう。太平洋戦争の発端となった真珠湾攻撃を現在に伝える「アリゾナ記念館」。そして、パールハーバーの中に在る島「フォード島」にある「太平洋航空博物館」や、東京湾の艦上で降伏文書調印が行われた「戦艦ミズーリ」など、当時の様子を知り得る教材が幾つも見られます。
真珠湾のアリゾナ記念館(右)と戦艦ミズーリ(左)
さて、ワイキキには平和教育の教材が全く無いと思っておられる方も多いでしょうが、第二次世界大戦に従軍した日系米国人兵士を称える碑があります。英語で “Brothers in Valor” Memorial と書かれている碑がそれで、ワイキキの中心から、一方通行のカラカウア大通りを遡るように北西方向に歩き、サラトガ通りとの交差点を越えた左側(海側=マカイ)、カラカウア通りにオロハナ通りが突き当たるところにあります。サラトガ通りのワイキキ郵便局に隣接するテニスコートが見つけられれば、容易に探せる場所です。日系人が属したのは主に陸軍で、4隊ありましたので、碑の四面にそれぞれの隊が紹介されています。
日系兵士を称える碑
先ずは「100大隊」。ハワイ語で「穴」を「プカ」と云います。それが転じて日系二世がこの100大隊のニックネームにしたのが「ワン プカ プカ」。1941年12月7日の日本帝国の真珠湾攻撃以前、米国籍を持つハワイの日系二世は、既に準州兵として、又、ハワイ大学のROTC(予備役将校訓練課程)に所属していた者もいましたが、戦争ぼっ発により除隊させられてしまいます。しかし米国に忠誠を誓う彼らは再度武器を持つことを許され、1942年6月にハワイ臨時歩兵大隊として米本土に移動し、そこで第100歩兵大隊と命名されます。ウィスコンシン州とミシシッピー州の基地で訓練を受けた彼らは、現在アルジェリア第二の都市になっているオランへ送られ、そこからイタリア戦線、そしてフランス西部でドイツ軍との激しい戦いに投じられます。
100大隊の碑
100大隊とともに欧州戦線で戦ったのが442部隊です。モットーは「ゴー フォー ブローク」。1943年になると日系二世による連隊の編成が始められ、これに志願した若い日系人により編成されたのが第442連隊でした。1500名を募集したところ、6倍の応募があり、2600名の若者がハワイから志願し、収容所に送られていた本土の日系二世も加わり、100大隊を合体して欧州戦線に送られ、イタリアのモンテカッシーノの戦いに始まり、フランス西部ボージュの森でのテキサス大隊の救出作戦、再度のイタリアでの戦いを勝ち抜きます。しかし、これらの戦いで多くの血が流され、米軍で負傷者や死者に送られる勲章「「パープル ハート章」を9486人が受けた連隊であることが、如何に過酷な戦いを強いられたかを物語っています。
442部隊の碑
欧州戦線ではなく、太平洋で参戦したのがMIS (Military Intelligence Service) 、翻訳業務や情報収集に携わった日系二世です。日本語の無線傍受や書面の解読、捕虜の尋問、そして戦後の日本での業務にあたった人達です。100大隊や442部隊が直接日本との交戦に向けられなかったのに対し、MISの隊員は父母の国との対応を求められたわけで、精神的にもかなり過酷な経験をした兵士達だったと云えます。そしてMISの存在は、機密保持のため戦後も長く公表されませんでした。
MISの碑
四番目の部隊が1399工兵大隊です。1944年4月にオアフ島ワヒアワのスコーフィールド陸軍基地で構成された日系人部隊で、結果として海外に派兵されることはありませんでしたが、戦闘やハワイの防備に欠かせない物の作成と運搬にあたった兵士達でした。
1399工兵大隊の碑
過去の戦いの事実を知ることは大事なことです。平和教育の素材を、再度ハワイに見出してみましょう。
付帯的な情報・発展情報
太平洋戦争ぼっ発により、全員が強制的に収容所に送られた米本土の日系人とは違い、人口に占める割合が多かったハワイでは一部の主要な人のみが収容されました。その収容所の一つとしてオアフ島、真珠湾の西に存在したホノウリウリ日系人収容所跡地が、2015年2月24日、オバマ前大統領により、国定史跡に指定されました。近い将来、平和教育の新たな素材として見学が可能になるでしょう。
関連コンテンツ ⇒U.S.アーミー記念館
-
浅沼 正和Masakazu Asanuma担当講師
【インタビュー動画あり】
ハワイ在住通算27年目を迎える。2001年からビショップ博物館で日本語ドーセントのボランティアを始め、2003年に同博物館の会員組織を代表する Bishop Museum Association Council のメンバーに選出され、21年間務めた。他に、ハワイ日米協会理事やハワイ日本文化センターのBoard of Governor 等を務め、日布間の文化交流活動に従事している。海外の訪問国と地域の数は95箇所に及ぶ。