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ニイハウ島
ニイハウ島
- ハワイ八島の中では、カウアイと共に一番生成年代の古い島「ニイハウ」。この島と、マウイ島の南西に位置するカホオラヴェ島は、一般には訪問することが出来ません。
ハワイ八島の最西端、ニイハウ島
クック船長がハワイ諸島を発見し最初に上陸したのは、カウアイ島の南西海岸「ワイメア」でした。この町から更に南西の方角の沖合に、もう一つの島が遠望できます。これが、ハワイ八島最西端の島「ニイハウ」(Niʻihau) です。
クック船長率いる二隻の船は、1778年1月、ワイメアからニイハウ島に向かい、島の西側に停泊して物々交換でイモ類の他、塩、水などを得て、北米大陸へと航海を続けていきました。しかし、この島では水も食糧も十分には調達出来ませんでした。
ニイハウは、ハワイ八島の内、面積は一番小さな方から二番目。カウアイと共に八島の中では一番生成年代の古い島です。火山が崩落して出来たと思われる屏風のような崖が東海岸に弧を描くように連なっていますが、高い山はありません。その上、カウアイ島に雨を降らせた後の貿易風が吹いてきますので、降雨量は少なく、水が豊富に得られない島でもあります。上記のクック船長の記録も、それを物語っています。
ニイハウ島(ビショップ博物館の展示物より)
1864年、ニイハウは、シンクレア(Elizabeth McHutchison Sinclair) がカメハメハ五世から購入した島で、現在も、その子孫であるロビンソン氏により所有されています。砂糖キビ農園や放牧、パイナップル生産、養蜂などの産業に使われてきましたが、そんなに多くの人口を抱えた島ではありませんでした。クック船長が島を発見した1778年には推定一万人が住んでいたとも伝えられていますが、その後、他島へ移り住んだ人も居り、1841年の人口は1000人、1980年の人口調査では226人と、減少の一途をたどっています。
1880年頃と思われるニイハウ島の風景(ビショップ博物館の展示物より)
さて、この島で一番知られているのは、「ニイハウ シェル レイ」でしょう。この島の海岸でしか取れない、艶のある小さなマキ貝で作られたレイです。「ライキ」(お米)とも呼ばれる白い貝「ププ ケオケオ」(Pūpū keʻo keʻo)が主に使われますが、その他にも茶色の模様のある「モミ」(真珠)や、ニイハウ島の王の名を冠した、赤い色をした「カへレラニ」などの種類が知られています。希少な貝で作られたレイは高価で取引され、王族の女性にも愛用されていました。
1887年、ニューヨークで撮影されたカピオラニ王妃の写真。ニイハウシェルレイを付けています(ビショップ博物館の展示物より)
時代は移り、1941年12月7日、太平洋戦争勃発の真珠湾攻撃の日、ゼロ戦が一機、ニイハウに不時着しました。この時、島には日本語の解る住民が居て、このパイロットを助けたエピソードが残されています。ニイハウ島にはネイティヴハワイアンの人々が住んでいて、彼らの間ではハワイ語のニイハウ方言が今でも使われていることが知られていますが、中国やポルトガル、日本からの移民の血を引く人達も住んでいます。以前、ビショップ博物館でニイハウ シェル レイの特別展示があり、その開始を祝うレセプションに、レイを作る女性が招かれていましたので、聞いてみました。「ニイハウ島には日系の住民も居られるのですか?」と。その女性は何と「私の家系には広島出身の人が居ました」と答えてくれました。
タヒチからハワイにやって来た火山の女神「ペレ」が、ニイハウ島より更に西に在る島に移り住み、その次に住んだとも云い伝えられている島「ニイハウ」。現在は、島民のカウアイへの往復も自由に行われていますし、他の島の人々と変わらぬ生活を営んでいます。
付帯的な情報・発展情報
住民以外は入島出来ない島、ニイハウ。カウアイ島からヘリコプタ―で島の上空を周遊し、丘に着陸するツアーがあり、これが、ニイハウ島を訪れる現在唯一の方法です。
オアフ島の真珠湾、フォード島に在る太平洋航空博物館に、ニイハウ島へゼロ戦が不時着した際の様子を紹介する展示物が在ります。
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浅沼 正和Masakazu Asanuma担当講師
【インタビュー動画あり】
ハワイ在住通算27年目を迎える。2001年からビショップ博物館で日本語ドーセントのボランティアを始め、2003年に同博物館の会員組織を代表する Bishop Museum Association Council のメンバーに選出され、21年間務めた。他に、ハワイ日米協会理事やハワイ日本文化センターのBoard of Governor 等を務め、日布間の文化交流活動に従事している。海外の訪問国と地域の数は95箇所に及ぶ。