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2016.01.11

ムウムウ

現在ハワイではオフィシャルな女性のドレスであるムウムウ(ホロク)の歴史

  • 宣教師の妻達より伝えられたドレスは、王族の女性達から始まったホロクとなり、ハワイのオフィシャルな服、ムウムウとなりました

ムウムウという言葉を聞くと、昔からハワイで着られているドレスというイメージが湧きます。ハワイに生地というものが紹介されたのは、1778年のキャプテンクックの来島からだと言われています。1820年に宣教師が来島したときには、その妻達がドレスをまとい、生地の多くをハワイに紹介しています。それ以前は、女性達はワウケの表皮から叩いて作ったカパというものを、何枚か重ね、パウと呼ばれるスカートを身にまとったりしていましたが、ほぼ上半身は裸の状態でした。 まずは宣教師の妻達が王族の女性にドレスを作り、そのあと一般の女性にも広まり定着しました。現在ではハワイの文化や歴史の象徴となり、フォーマルなドレスとしても着られています。

現在ムウムウと呼ばれるハワイのオフィシャルドレス
design by Victoria Jones

宣教師がハワイに到着したとき、王とともに王家の女性達も出迎えに行きました。その時、初めて西洋の女性のドレスがハワイの人々の目にとまりました。宣教師の妻達が着ていた西洋のドレスは、ハイウエスト、細いスカート、そしてタイトな長袖のドレスでした。このドレスを見た王族の女性達は、同じようなドレスが着たいと申し出をしました。 当時の王族の女性達は体重が300パウンド(約136kg)近くある体型だったので、妻達が着ていたドレスのスタイルでは無理でした。そこで体型に合わせたドレス、すなわちタイトドレスをゆったりとしたスカートにし、ヨークを胸よりも少し高い位置に移動し、袖も短くし、ゆったりとしたドレスに仕立てました。ある説ではこの服をムウムウと呼び、下着(シミーズ)や寝間着、室内着として着ていました。そしてホロクと呼ばれたドレスは、ヨークが付き、裾は後ろが長めのトレーンがあり、フォーマルに作られました。ムウムウを下着にし、このホロクをドレスに着たことが始まりとされています。当時の生地としてはブロケード、シルク、チンツなどが使われたようです。ですが、ハワイの気候の中、2枚重ねはとても暑く、窮屈だったため、いつの間にかムウムウはカジュアル、ホロクはフォーマルなドレスと区別が付いているという説もあります。 ホロクというハワイ語の由来ですが、宣教師の妻達が足踏みミシンをハワイに紹介したことと時期が重なります。ハワイ語でホロは動かす、クは止めるという意味があり、足踏みのペダルを動かす動作からこの名前が生まれたとも言われています。 また、一説にはカメハメハ1世のお后の一人であったカラクア王妃は、宣教師がハワイに到着してからは、一向と同行し、その妻達に、すぐに王妃用のドレスを作るよう要求しました。その後カラクア王妃は、宣教師を招待した王主催のパーティで、完成したホロクとレースの帽子を身にまとい、センセーショナルなお披露目をしました。このときのホロクは、ハイネックでストレートなスカートは、位置が少し上になったヨークの下に付けられ、袖は細めの長袖だったというスタイルが作られたということです。宣教師の妻達が着ていたドレスに比べ、ゆったりとし、ハワイの気候に合ったものが考案されました。

ドレッシーなホロク
design by Victoria Jones

王族の女性達の間にホロクは大人気で、また、クリスチャンになった一般人はドレスを着るという習慣がすぐに浸透しました。ですが、一般女性はまだまだパウというカパを幾重にも巻いたスカートだけはき、上半身は裸でした。宣教師はこのような格好を好まず、王族の女性達に作ったようなドレスを女性達に勧めました。時間はかかったようですが、1829年くらいまでにはドレスが定着したと言われています。さらに1830年くらいから、宣教師の妻により、一般の人達に裁縫を教え、自分達のドレスが作れるようになりました。 しかしながら、ハワイアンと西洋人のドレスに対しての価値観がかなり違っていたのも浸透するのに時間がかかった要因の一つと言えます。西洋人は謙虚さと正義正しさを兼ね備える社会慣習の為に、洋服を身にまといます。ですが、ハワイアンはそのような考えはなく、王族は体を隠すためということよりも、ステータスを見せるために服を着ていたというのが本音のようです。1860年代には約90%の女性達がホロクを身に付けていたという文献もあり、イザベラ・バードのハワイ紀行記にも、ハワイの女性達のドレスはシンプルで素敵であり、支度するのに時間がかからないからうらやましいと言った内容も書かれています。 1883年のカラカウア王戴冠式の時には、王族の女性達はヨーロッパと親交も深かった事より、西洋のドレスを身につけています。ですが、その他はホロクをとても気に入っていました。 1870年代には裾の後ろに少し長めのトレーンも付けられ、よりフォーマルでエレガントなホロクになりました。 また1873年頃には、ハワイの女性達はやせたこともあり、かなり一般に浸透しまし、1890年代にはレース、ハトメ、ラッフル、大きなレッグ・オー・マトン袖が付いたドレスがポピュラーになりました。 黒いホロクを着ていた王族が二人いました。一人はカメハメハ1世の王妃の一人であり、力のあったカアフマヌ王妃。そしてもう一人はハワイ王国が最後の女王リリウオカラニ女王。王国崩壊後は、大好きなライラック色を辞め、黒のホロクしか着なかったと言われています。これには王国崩壊へ対しての心の抗議を黒で表現していたとも言われています。この後は王族の存在がなくなってしまい、ハワイでは色々な民族がみんなホロクを好んで着るようになったということです。

黒いホロクを着ていたリリウオカラニ女王
photo provided by Hawaii State Archives

20世紀になってからは、ムウムウが寝間着、室内着から生地も変わり、1960年代には体の線に合わせ、裾が短くなったホロムが誕生し、一般的に外出着として認められるようになりました。これが現在ではムウムウと呼ばれています。ラッフルやタッティングレースなどの装飾の付いたホロクは、イブニングドレスのようにドレッシーに変化しています。また、カスタムメイドで、ウエストの部分も細く、体の線に沿ったドレッシーなものは、ハワイ文化を存分に感じられる、地元の人達のウェディングドレスやフラなどにはとても人気があります。

付帯的な情報・発展情報

参考資料

Aloha Attire: Hawaiian Dress in the 20th Century by Linda B. Arthur – A
Schiffer Book for Collectors

The Art of Aloha Shirt by Desoto Brown & Linda Arthur – Island Heritage Publishing

History of Hawaiian Holoku by Linda B. Arthur – www.waveshoppe.com site article

Malamalama, the magazine of the University of Hawaiia System wite article

  • 藤原 小百合 アン
    Anne Sayuri Fujiwara
    担当講師

    【インタビュー動画あり】
    アーミッシュキルトの盛んなアメリカ・オハイオ州の高校に留学中にアメリカン・パッチワークを習得。メリーランド大学学士号取得。その後ハワイに移住し、マウイ島のハナ・マウイ・ホテルで出会ったハワイアンキルトのベッドカバーに一目惚れをし、ハワイアンキルトを始める。2001年9月11日、ニューヨークで起きた同時多発テロ事件の犠牲者とその家族への追悼キルト、『千羽鶴 フレンドシップキルト』を全国のキルターとともに完成させ、2009年9月、9.11メモリアルに寄贈。2011年7月、ハワイで毎年開催される「キルトハワイ」において、オリジナルデザインの「マノアの森」キルトがグランプリ受賞。ハワイ、日本でのレッスンなど、伝統的なハワイアンキルトを広げるため、日々奔走中。15年以上、パシフィックリゾートの「キルトパラダイス」(http://www.holoholo.world/kawaraban/category/quilt/)を連載中。 日本でハワイアンキルト本を数冊出版。2006年よりホノルルフェスティバルにおける伝統的ハワイアンキルト展を毎年開催。2013年よりイオラニ宮殿の日本語ドーセントのボランティアを始め、現在ハワイ在住31年目。

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