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米国になったハワイ
米国のクリーブランド大統領はハワイの併合を承認しませんでした。
・クリーブランド大統領は、王国終焉後のハワイ臨時政府を支持しませんでした。しかし、リリウオカラニ女王の復権も成り得ませんでした。
・1897年、米国での民主党から共和党へ政権交代がハワイ併合のターニングポイントになりました。その背景には米西戦争がありました。
・ハワイが米国の一部になったことから、教育は英語で行なわれるようになり、ハワイ語を話す人の減少につながっていきました。
1893年1月、ハワイ王国は八代の王による98年間の栄光と苦難の歴史に終わりを告げました。
米合衆国第24代大統領クリーブランドは、王国終焉後のハワイ臨時政府を支持しませんでした。しかし、リリウオカラニ女王の復権も成り得ませんでした。ハワイでは、クリーブランドは引き続き併合を承認しないだろう、従って次の政権まで待たねばならないと判断する米国への併合派の動きと、砂糖業者とオアフ島中心の少数独裁の臨時政府への批判の中で新憲法策定の動きが進み、1894年7月4日の米国独立記念日の日を選び、憲法発布とハワイ共和国誕生が宣言され、サンフォード ドールが共和国大統領に就任しました。
クリーブランド大統領
当時の世界情勢に目を向けると、かつて南米から北米大陸西海岸にかけての広大な地域を統治していたスペインは既に弱体化し、カリブ海とフィリピンに植民地を残すのみになっていました。1898年4月に米合衆国はスペインに宣戦布告を行い、キューバに出兵。フィリピンでも独立運動とあいまって勝利し、その年の終わりに米国は、パリ条約でフィリピン、プエルトリコ、グアムを買収し、キューバは保護国となりました。
1897年、民主党から共和党へ政権が代わった米国では、7月にマッキンリー新大統領がハワイ併合法案に署名し、議会でも、ハワイを領有してフィリピンなどアジア進出の補給地にすべきとの議論が高まりました。その結果、ハワイでは1898年8月にハワイ国旗が降ろされ星条旗が掲げられた後、1900年に正式に米国の準州(テリトリー)になり、ドールが初代知事に就任しました。
イオラニ宮殿で下されるハワイ国旗 ビショップ博物館の展示物より
準州時代に活躍したハワイ王朝の末裔にクヒオ王子が居ました。
カメハメハ大王にカウアイ島とニイハウ島を移譲したカウアイ島の王、カウムアリイの曾孫にあたり、叔母のカピオラニ王妃の養子(ハナイ)として育ち、1893年の王国崩壊時には21歳、リリウオカラニの幽閉につながる1895年の王朝復興を求める蜂起の際には王党派の一人として参加し、反逆罪で一年近く収監されています。しかし後に共和党に転じ、1902年より19年間、準州選出連邦下院議員としてハワイの代表を務めました。
米国領になると云うことは、当然のことながら市民生活は米国の法律の下で営まれることを意味します。
王国時代から始まった日本からの移民の生活にも影響が出てきます。政府や会社が斡旋しての移民は米国法の下では許可されず、また一方で日系人の米本土への再移住も行なわれるようになりました。個人が自由に移民が出来る時代にはなりましたが、1924年にはジョンソン・リード法(いわゆる排日移民法)がクーリッジ大統領の署名により発効し、ハワイが日本からの移民を受け入れる時代は終わりを告げました。
1933年、米合衆国の一部になったハワイにルーズベルトが米国大統領として始めて訪問。最初の寄港地ハワイ島のヒロでは日系人の漁船が歓迎し、ヒロの南にあるオーラア耕地では日系入植者が星条旗を掲げて歓迎をしたと報じられています。
ハワイが米国の準州だった時代には、客船で米本土から多くの観光客が訪れるようになり、19世紀には王家の土地だったワイキキは、ホテル等が建ち並ぶ太平洋の一大リゾートへと変身を遂げていきます。現在でも、1901年に建てられたモアナ ホテルにその当時の面影を垣間見ることができます。
クヒオ王子
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浅沼 正和Masakazu Asanuma担当講師
【インタビュー動画あり】
ハワイ在住通算27年目を迎える。2001年からビショップ博物館で日本語ドーセントのボランティアを始め、2003年に同博物館の会員組織を代表する Bishop Museum Association Council のメンバーに選出され、21年間務めた。他に、ハワイ日米協会理事やハワイ日本文化センターのBoard of Governor 等を務め、日布間の文化交流活動に従事している。海外の訪問国と地域の数は95箇所に及ぶ。