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カママル
カママル
- 西欧人来島後、病気によるネイティヴハワイアンの人口減少が深刻化する中、カメハメハ二世とカママル王妃は麻疹で亡くなっています
英国ロンドンで若くして亡くなったカメハメハ二世とカママル王妃
カママル(Kamāmalu) は、カメハメハ大王の長男リホリホの妻で、1802年にハワイ島北西部のカワイハエで生まれたと伝えられていますが、正確な記録は残っていません。
1819年にカメハメハ大王の死を受けて王に就任した夫君のカメハメハ二世同様、その足跡があまり伝えられていない方ですが、リホリホが大王の後継者になり4年半が経った1823年11月、カママルは二世と共に英国へと旅立ちます。英国の捕鯨船での長旅の後、翌年の5月にポーツマスに到着し、その後ロンドンではジョージ四世に謁見。オアフ島の知事ボキとその妻リリハ、そしてカメハメハ大王の腹心として活躍した英国人ジョン・ヤングの息子ジェームス・カネロア・ヤングが同行していましたが、一行は滞在中に麻疹にかかり全員がロンドンで死去する事態となりました。カママルの死は1824年の7月8日。二世は6日後の7月14日に亡くなり、亡骸は国王ジョージ四世の命によりマホガニーの棺に納められ名前と誕生日、死亡した日が刻まれ、英国海軍の戦艦でハワイに移送され、1825年5月にホノルルに無言の帰国を果たし、二人の亡骸はイオラニ宮殿前庭に埋葬されました。二十代で亡くなった二世とカママルがハワイ王国の最高位に就いていたのは、わずか5年ほどだったことになります。
ロンドンで観劇中のカメハメハ二世とカママル王妃一行(写真提供:ビショップ博物館)
ハワイに捕鯨船が初めて来航したのが1819年。翌年の1820年には初の宣教師がボストンから来島していますので、カメハメハ二世時代のハワイは、西欧の影響を受け始めた時代です。カメハメハ大王の時代には、米大陸から中国に向かう貿易船が中継補給地としてハワイに立ち寄るようになり、中国で扇子などに使われ高値で売買される香りの良い白檀の木が、ハワイで自生していることに気づき、買い求めます。カメハメハ大王はこれに賢く対応し、カプ(kapu=アリイによる命令)を発令して、大王の許可なくして西欧人への白檀の販売を禁じます。貨幣が介在したのか物々交換だったのかは良く分からないものの、貴重な収入が大王のもとに入り、同時に白檀の乱獲を抑える歯止めにもなりました。しかし息子の二世は大王の意に反し、各地の首長にその権限を与えてしまい、結果としてハワイの白檀は枯渇していきました。
さて、西欧人来島以来、それまで外界から閉ざされていたハワイには好ましくない病気が蔓延するようになり、ネイティヴハワイアンの人口減少が大きな社会問題になっていました。二世の時代、1823年に宣教師が数えたハワイアンの人口が、推定13万人であったものが、その後更に減り、三世の時代の1850年には8万人、その後も減少を続けます。自らも伝染病で亡くなったカママルとカメハメハ二世の亡骸はイオラニ宮殿前庭に葬られていましたが、カメハメハ五世の時代に王家の墓地がマウナアラに完成した際にそちらに移され、現在もそこに埋葬されています。
カママル(ビショップ博物館の展示物より)
付帯的な情報・発展情報
英国からカメハメハ二世とカママルの亡骸を運んだ英国戦艦Blondeの艦長はAnson Byron、 詩人バイロンの甥にあたります。
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⇒カメハメハ二世
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浅沼 正和Masakazu Asanuma担当講師
【インタビュー動画あり】
ハワイ在住通算27年目を迎える。2001年からビショップ博物館で日本語ドーセントのボランティアを始め、2003年に同博物館の会員組織を代表する Bishop Museum Association Council のメンバーに選出され、21年間務めた。他に、ハワイ日米協会理事やハワイ日本文化センターのBoard of Governor 等を務め、日布間の文化交流活動に従事している。海外の訪問国と地域の数は95箇所に及ぶ。