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アフプアア
アフプアアは、西欧人来島前のハワイアンの生活を知る上で、重要な概念の一つです。
アフプアア
ネイティヴハワイアンの共同生活地域
ワイピオの谷。ハワイ島北東部、砂糖産業華やかな頃の面影を残すホノカアの町の北に、緑豊かな谷合が残されています。絶壁の遙か上から見下ろすと、典型的なアフプアアが眼下に広がって見えます。
ワイピオの谷
アフプアア(ahupuaʻa) とは、ハワイアンの人々が共同生活を営んでいた一つの地域や土地区画を指すハワイ語で、アリイ(首長)が税を徴収(物納)する地域の単位でもあり、切り立った山の山頂から海辺に達する平地までの地域全体を、そう呼びます。丸い形の島を、峰に沿ってビザパイのように切り分けた一つの形を想像すると、分かり易いでしょう。
山から滝となって流れ落ちる清水を集めた小川は、土地を潤し作物を実らせ、川から水を引いた水田ロイ(loʻi) ではタロ芋(kalo) を作り、畦や水田の周辺にはバナナ(maiʻa) がたわわに実り、人々の生活を潤していました。
海辺では蛸(heʻe) や海老(ʻōpae) 魚(iʻa) 海藻(limu) などを獲り、川の水と海水が混ざり合う浅瀬に石を組み立てて養魚池(loko iʻa) を造り、潮の干満の差を利用して堰(mākāhā) を開けたり閉めたりして、海の小魚を池に入れて大きく育てます。この養魚池で魚を育てるのは、ポリネシアの島々の中でもハワイにしかない手法とのこと。そして、漁師はサンゴ礁の外へアウトリガーカヌーで漕ぎ出し、大きな釣り針で魚や鮫を獲ります。下級のアリイである「コノヒキ」と呼ばれる管理者の下で、山の幸と海の幸はこの一地域内で配分され、一つのアフプアア内で人々の生活が完結して営まれる体系が構築されていました。
西欧人によりハワイに私有地の観念が持ち込まれ、カメハメハ三世が1848年にグレートマヘレと呼ばれる土地の分配を行う前のハワイ島には150以上、オアフ島には80から90ものアフプアアがあったことが知られています。ワイキキもアフプアアの名称の一つでしたが、現在のワイキキのみでなく、コオラウ山脈の稜線を北側の境界として、西の端はタンタラスの丘からアラモアナにかけて、東はハワイカイとクリオウオウの境の峰まで。マノアやパロロの谷、カハラのあたりも含まれる、かなり広い地域でした。一方、島の北側、コオラウ山脈の北東側、カネオヘから北の部分とカフクからノースショアにかけては比較的狭いアフプアアが並んでいます。例えば、一般の人も乗馬などが楽しめるクアロア牧場の土地は、北からカアアワ(Kaʻaʻawa)、クアロア(Kualoa)、ハキプウ(Hakipuʻu) と呼ばれる3つのアフプアアから成り立っています。
クアロア牧場の所有地とアフプアア。写真の下部に見える入江のような場所は養魚池ロコイア(写真提供:クアロア牧場)
クアロア牧場内に見られる、ハキプウとクアロアのアフプアア境界線上の石組み(写真提供:クアロア牧場)
島の中で何故、ワイキキのように広い土地と、島の北部のように狭い区画が存在したのか不思議に思えますが、作物が豊富に取れるアフプアアは狭く、不毛の地は広く、富が平均して行きわたるように考えられていたとの説もあり、知恵に満ちた統治が行われていたようにも思えます。
それでは山脈の北や北東側で作物が多く収穫出来るのは何故なのか? それは貿易風の成せる技とでも云えるでしょう。つまり水の豊富さに因るのです。水道施設の整った現在では、太陽が燦燦と降り注ぎ乾燥した気候の、島の南西側でも生活は出来ますし、ハワイ諸島に開発されたリゾート地の場所を地図上に思い浮かべてみても、ほとんどが、貿易風の風下にあたる各島の南西側に位置しています。しかし、ハワイ諸島にたどり着いたポリネシア人にとって、何より重要だったのは山から豊富に流れ出る水でした。これはハワイ語の中にも窺えます。水はハワイ語でワイもしくはヴァイと云いますが、「ワイワイ」または「ヴァイヴァイ」と繰り返して云うと、貴重、重要、財産や富を意味します。水が豊富なこと=富との意味合いです。
クアロア牧場内の一つの峰から海岸までの地形。アフプアアそのものです
数年前のこと、オアフ島の幹線道路に、アフプアアの境界線であった場所を示す標示板が建てられるようになりました。ハワイを訪れる人達にとっては、アラモアナ大通り沿い、ピイコイ通り近くの表示が、最も目につき易いでしょう。コオラウ山脈の北東側、クアロア牧場あたりの曲がりくねった道には頻繁にこのサインが現れます。アフは祭壇、プアアは豚を意味します。昔はそれぞれの境界に石を積み上げた祭壇を作り、その上に豚の頭をかたどった木像を置いたそうで、境界を示すサインにもそれが描かれています。
アラモアナ通り上のアフプアア境界線の表示
ハワイの土地区分ですが、ハワイ、マウイ、オアフ、カウアイ島のような大きな島をモクプニと呼び、モクプニの一部分や小さな島をモクと呼びました。モクを、峰に囲まれた谷に沿って細分化した区画がアフプアアと呼ばれる地域で、更にイリ(ʻili) と云う小さな区域に分けられて管理されることもありました。
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浅沼 正和Masakazu Asanuma担当講師
【インタビュー動画あり】
ハワイ在住通算27年目を迎える。2001年からビショップ博物館で日本語ドーセントのボランティアを始め、2003年に同博物館の会員組織を代表する Bishop Museum Association Council のメンバーに選出され、21年間務めた。他に、ハワイ日米協会理事やハワイ日本文化センターのBoard of Governor 等を務め、日布間の文化交流活動に従事している。海外の訪問国と地域の数は95箇所に及ぶ。