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日系移民の歴史
多くの日系移民を受け入れたハワイ
・砂糖農園での労働力確保とハワイアンの人口減少から、ハワイへの移民の必要性が生じました。
・ハワイへの日系移民は、それぞれの時代背景の中で、元年者、官約移民、私約移民、呼寄せ移民などと区分して呼ばれます。
砂糖産業の隆盛がなければハワイへの移民の歴史は変わっていたことでしょう。
ハワイの砂糖産業は、1835年、西欧人によるカウアイ島コロアでの砂糖キビ栽培に始まります。1848年にカメハメハ三世が行なった土地の分配「グレート マヘレ」により土地の個人所有が認められ、それまでハワイアンの人々が生活に必要なだけ植えていた砂糖キビは、西欧人による砂糖プランテーションでの大規模栽培に変化していきます。
ハワイでの砂糖生産量の推移 ビショップ博物館の展示物より
1849年には米合衆国とハワイ王国との和親条約が結ばれ、ゴールドラッシュに湧く米国西海岸への輸出増加が、砂糖生産を促進していきました。米国への輸出拡大の裏には、南北戦争(1861年から65年)による南部からの砂糖販売が途絶えたことも上げられます。砂糖をより売り易くするため、カメハメハ四世、五世とルナリロ王は米国との互恵条約締結を試みますが成就せず、第七代目の王カラカウアにより、ようやく互恵条約が締結されハワイでの砂糖生産量は飛躍的に伸びていきます。一方、ネイティヴ ハワイアンの人口は、西欧人の来島と共にもたらされた病気等が原因で減少の一途をたどり、1820年の推定数値13万人が1850年には8万人まで落ち込み、その後も更に減少を続けました。
砂糖産業は多くの労働人口を必要とするため、ハワイ王国は1852年に外国からの移民の受入れを決定し、中国から初の移民が来島。1864年にはカメハメハ五世が移民局を発足させました。
ハワイへの当時の主要な移民を年代順にあげると、中国、日本、南洋諸島、ポルトガル、ドイツ、ノルウェー、スペイン、プエルトリコ、朝鮮半島の順となります。ここで、日本からハワイへの移民の歴史をまとめてみます。
記録に残っている例では、1806年に安芸の稲若丸が捕鯨船に救助されてハワイに上陸しています。1838年には「番談」と云う名で漂流記が残されている富山の運搬船、長者丸の次郎吉。そして1841年(天保12年)に仲間と共に鳥島で米国の捕鯨船「ジョン ハウランド号」に救助され、ホノルルに到着した万次郎と続きますが、これらは、いずれも漂流民ゆえ、自分の意思で来島した人達ではありませんでした。
1860年に、サンフランシスコからの帰路、咸臨丸が石炭と水の補給のためにホノルルに寄港し、その際に木村摂津守等の代表がカメハメハ四世とエマ王妃に謁見し、その際、四世が日本からの移民を要請しました。この時の通訳はジョン万次郎が勤めています。1868年、後に「元年者」と呼ばれるようになる150名ほどの移民が横浜からサイオト号でホノルルに到着しますが、幕末の混乱の中で集められた人々は、職人と幕末に禄を失った武士が中心だったため農園での労働には向かず、40名が帰国しています。
その後、明治政府は移民に消極的でしたが、その間に1878年にポルトガルから、1881年にはドイツとノルウェーからの移民がハワイに入っています。
1881年(明治14年)東京で明治天皇に謁見したカラカウア王が移民を要請し、1885年(明治18年)に明治政府が正式に認めた「官約移民」が開始され、同年2月には汽船シティー オブ トウキョウ号で945名ほどが到着し、1893年にハワイ王国が終わりを告げるまでに、政府間で約2万9千人余りの日本人移民が移住しました。
移民の人々はオアフ島ばかりでなく、各島の砂糖農園に入植していきます。当初は、数年農地で働いて財を成したら帰国しようと考えていた人達でしたが、現実は極めて厳しく、農地に居つかざるを得ない状況になりました。
沖縄からの移民は1900年から始まっています。
米合衆国に併合された後は米国の法律が適用され、従来の移民が奴隷と同様にみなされたことから、1900年(明治33年)から07年(同40年)は「自由移民」の時代となり、この間に約7万1千人が移住し、一方でハワイから米本土への再移住の数も増加しました。その後1908年から1924年(大正13年)は「呼寄せ移民」の時代となり、この間に更に約6万1千人が来島し、総計で22万人ほどの日本人がハワイに移民として渡ったことになります。1920年(大正9年)には、ハワイ準州の人口の中で日系人の占める割合が全体の42.7%にまでになりました。
日系移民 ビショップ博物館の展示物より
これだけの日本人が移住すると、当然子供の数も増加します。
一世の親は子供達への日本語教育に熱心でしたが、公立学校は英語での授業が行なわれていましたので、公立学校へ通った後に日本語学校で勉強することになりました。
日本語学校では日本の文部省の教科書がそのまま使われ、修身も日本に居るのと同じように教えられました。この修身の授業が、第二次世界大戦中に欧州で参戦した日系二世兵士にとって「如何に自分達の力になったか」が後に語られています。
番談 ビショップ博物館の展示物より
さて、日系移民の砂糖農園での過酷な労働と生活環境、1909年と1920年のストライキによる増給の動きなど、ハワイでの日系人の苦労の歴史は語りつくせないほどありますので、当時の砂糖キビ畑で歌われていた「ホレホレ節」の歌詞の一節で、その苦労の歴史の一端を紹介しておきます。
「ハワイ ハワイ とよー 夢見てきたが 流す涙も キビの中、
カネは カチケンよー わしゃホレホレよ 汗と涙の 共稼ぎ、
ゆこうか メリケンよー 帰ろうか日本 ここが 思案の ハワイ国、
横浜出るときゃよー 涙が出たが 今じゃ子もある 孫もある」
(注釈)歌詞の中の、カネはハワイ語の夫
カチケンは英語の Cut Cane のことで、キビを刈る作業
ホレはハワイ語でキビの葉を落とすこと
メリケンは米本土を指し、米本土に再移住しようか、日本に帰ろうか
思案に暮れている様子が唄われている。
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ネイティヴハワイアンの人口減少は、捕鯨船に乗って帰らない、カリフォルニアでの金の発見から米本土に移住するなどがその原因として挙げられますが、最も大きな原因は病気でした。長く外界から閉ざされていたハワイに西欧人が来島することにより病気ももたらされたのでした。
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浅沼 正和Masakazu Asanuma担当講師
【インタビュー動画あり】
ハワイ在住通算27年目を迎える。2001年からビショップ博物館で日本語ドーセントのボランティアを始め、2003年に同博物館の会員組織を代表する Bishop Museum Association Council のメンバーに選出され、21年間務めた。他に、ハワイ日米協会理事やハワイ日本文化センターのBoard of Governor 等を務め、日布間の文化交流活動に従事している。海外の訪問国と地域の数は95箇所に及ぶ。