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2017.05.09

ウクレレの歴史2

ウクレレの歴史2 20世紀〜ハワイから世界へ

  • ウクレレはどのようにハワイの国民的楽器になったか?
  • ウクレレはいつどのようにしてハワイの外に広まったか?
  • ウクレレを広めたハワイのアーティストは?

ウクレレはどのようにハワイの国民的楽器になったか

19世紀の後半、ポルトガル移民によって持ち込まれた楽器をルーツにして誕生したウクレレ。時はカラカウア王の時代。ウクレレはどのようにしてハワイで市民権を得たのか。
一般受けした最大の理由は、その手軽さであったことでしょう。持ち運び可能な楽器として当時広まり始めていたギターよりもさらにコンパクトなサイズは魅力的だったはず。値段もギターよりは手頃でした。
『The ʻUkulele - A History』(Tranquada and King, University of Hawaii Press)によれば、この時代のプランテーション・ワーカーの月給が18ドル以下、ウクレレは5ドルから10ドルくらいが相場。決して手軽な価格ではなかったのにも関わらず、人々の購買欲をそそるだけの魅力がウクレレにはあったようです。
ウクレレを世間に広める役割を果たした最重要人物は、じつはカラカウア王でした。彼はポルトガル移民が持ち込んだ小さな弦楽器の音とその音楽を大変気に入っていました。ポルトガル系の家具職人が作ったコア製のウクレレを大変気に入ったカラカウア王は、ウクレレを弾くミュージシャンや職人たち(彼ら自身がミュージシャンでもあった)のパトロンとなって、演奏会を主催したりお抱えのバンドをそばにおいて、来賓客のために演奏させたりしていたといいます。1883年の戴冠式のイベントでは、フラの伴奏楽器としてウクレレが使われたとされ、フラの新しい流れ(現在の「アウアナ」)を生み出すことになりました。
ウクレレの広まりに影響を及ぼした王は、自身もウクレレを演奏することを楽しんでいたといいます。メリー・モナーク(陽気な王様)のニックネームの通りの王様だったことがわかります。
ウクレレを愛した王族はカラカウアだけではありませんでした。プリンセス・カイウラニは、ティーンのころ上流階級のパーティーで友達と3人でウクレレを弾いて歌ったエピソードが残されているし、彼女がイギリス留学に持参したというウクレレが、後に発見されたりしています。
ウクレレはこのようにして王族によって世間に露出され、ハワイ国民に愛されるようになったのです。


ウクレレはいつどのようにしてハワイの外に広まったか

1890年代になってハワイの音楽が海を渡り米本土に紹介されるようになりました。
米領土となったハワイをPRするための博覧会出展という形で、ハワイアン・バンドが米本土で演奏する機会を得たからです。
『Hawaiian Music & Musician, An Encyclopedic History』(Kanahele & Berger, Mutual Publishing)によれば、1910年には米本土でのハワイアン・ミュージック人気は随分と高いものになっていたようです。貢献したのは各地をツアーしたバンド『トゥーツ・パカズ・ハワイアン』。トゥーツさんの弾くウクレレが、その後のウクレレ人気に影響を及ぼしたようです。
1910年代に米国でウクレレ・ブームが起こりました。地元で高まる需要に加えて米本土から大量のオーダーが入り始めます。ウクレレ・メーカーの老舗『Nunes』だけでは生産が追いつかなくなり、ウクレレ景気に乗じて『Kumalae』『Kamaka』など数々のウクレレ・メーカーが立ち上げられました。やがて米本土でウクレレの大量生産がはじまります。なかでもギター・メーカーとしてすでに地位を築いていた『Martin』が作るウクレレは、ハワイ製のものに引けを取らない高品質で人気を博しました。
米本土の家庭に広く行き渡ったウクレレは、さらに海を超えてヨーロッパへ渡ります。ウクレレをヨーロッパに紹介したのは戦時中に駐屯していた米兵たちでした。
20世紀前半にハワイ音楽ブームとともに広まったウクレレは、ハワイに影響を受けた米本土発のハパ・ハオレ・ソングやティン・パン・アレーを演奏する楽器を経て、ハワイの音楽とは切り離されていきます。
フラガールとウクレレ、というハワイを連想させるポップカルチャー的イメージは広く人々にすりこまれたまま、ウクレレは広く大衆音楽の楽器として、子供から大人まで手軽に弾ける楽器として、アメリカ人の日常品として、定着しました。


ウクレレを広めたハワイのアーティスト

コード演奏でリズムを生む、というのがハワイアン・ミュージックの伴奏楽器としてのウクレレの役割でした。そんなウクレレがジャズと出会い、ソロ楽器として新たな役割を担い始めたのは1950年代。ハワイではエディー・カマエ、米本土ではライル・リッツが、それぞれウクレレをソロ楽器として演奏し、新しいスタイルを築きます。
60年代にはオータサン(ハーブ・オータ)がシーンに登場、ウクレレ・ソロ・ミュージシャンとしてもっとも成功し、ウクレレ奏者として広く世界に知られるようになります。
70年代のハワイアン・ルネッサンスを経て、トラディショナルなハワイ音楽が地元ハワイでリバイバルします。合わせてウクレレ低迷期だったハワイに「ウクレレ再発見」の兆候が見られ始めます。ウクレレは「ハワイの誇り」をその存在と音で象徴する楽器へとイメージを転化させます。1990年代にもっともそれを具現化したアーティストがイズラエル・カマカヴィヴォオレでした。
1990年代のハワイでは、ハワイ王国転覆100周年(1993年)を機にウクレレ人気が高まります。なかでもローカルの若者たちに絶大な人気だったのがカアウ・クレーター・ボーイズ(ウクレレ奏者はトロイ・フェルナンデス)。彼らの軽快でスピーディーなウクレレ・ソロを前面に押し出した音楽スタイルがハワイの音楽シーンを席巻します。
90年代ハワイのウクレレ人気は、新世代の天才ウクレレ・プレーヤーの出現によって絶頂を極めます。ピュアハートのメンバーとして1998年にデビューしたジェイク・シマブクロの登場によって、ウクレレは新たなステージへと発展します。オータサンが極めた、ジャズを土台にするウクレレ・ソロ演奏のスタイルを、ジェイクはさらに進化させます。音楽的フィールドをロックやクラシックにまで広げ、2000年代のソロ活動の中で独自のスタイルを確立したジェイクは、多くのフォロワーを生みながら今もその頂点に君臨しています。

  • よしみ Nui だいすけ
    Daisuke Yoshimi
    担当講師

    【インタビュー動画あり】 1967年2月9日生まれ、神奈川県横須賀出身。1991 年よりハワイ在住。ハワイ大学卒業。フラ、ハワイ音楽に傾倒するハワイ・スペシャリストとして、ハワイを拠点に執筆・コーディネート活動を行う。ハワイのクムフラやミュージシャンとの親交も幅広い。フラダンサーとして、メリー・モナーク、キング・カメハメハの大会出場経験あり。著書に『たくさんのメレから集めた言葉たち』シリーズ、『LIVE ALOHA~アロハに生きるハワイアンの教え』がある。近年、フラダンサーを対象とした日本での講演・セミナー活動に力を入れている。
    facebook: https://www.facebook.com/NuiDaisuke
    公式HP: http://www.yoshimidaisuke.com/

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