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排日移民法とハワイの日系人
米国での日本人排斥の動きは、多くの日系人口を有したハワイ準州ではなく、カリフォルニア州に端を発した出来事でしたが、連邦全体の政治問題に発展した結果、ハワイに住む日本人、日系人もその大きな影響を受け、元年者以来、20万人以上(帰国者も含む)にも及んだハワイへの移民、移住の歴史は1924年に幕を閉じました。
排日移民法とハワイの日系人
米合衆国での1924年移民法成立
1924年、日本からハワイへの移民に終止符が打たれました
1868年の元年者と、1885年(明治18年)から10年間続いた官約移民、ハワイが共和国であった期間の私約移民の時代を経て、1900年(明治33年)にアメリカ合衆国の準州(テリトリー)になったことにより、自由移民として移民は継続されたものの、米本土とカナダへの転住(もしくはカナダ経由米国本土へ)の動きも出てきます。元々、王国もしくはその後のハワイ共和国への渡航を目的とした旅券を持つ日本人の米本土への転航、転住は日本の国としての方針に合致するものではなく、在ホノルル日本帝國総領事館もその旨の通達を出すのですが、それに反し、米本土の農地ばかりでなく、鉄道建設現場などへの就職を勧める業者を介して、少しでも賃金の高いところへ転住する人が増加しました。
一方、20世紀初頭、米国やカナダの西海岸で増え続ける日系移民への風当たりは強くなり、特にカリフォルニア州で日本人排斥の動きが加速していきます。
サンフランシスコ付近を襲った大きな地震が起きた年のことでした。1906年(明治39年)、同市で学童隔離事件が起こります。サンフランシスコ市の学校を監督する部署が日本人生徒を公立学校から東洋人学校に隔離する決定を下したことに端を発した騒動です。そして、1つの州での排斥運動が連邦レベルの問題となり、ついには日米間の外交問題に発展して行ったのです。
日米間での交渉の結果、1907年、日本は労働目的での米国への渡航を自粛する旨の紳士協約を結び、同時にハワイから米本土への転住は、カナダ経由も含め禁止されることになりました。
しかしながら、カリフォルニアを中心とした日本人排斥の動きはその後も沈静化せず、排日土地法成立などの動きが続き、民主党と共和党の政争の具ともなり、1924年(大正13年)を迎えます。
同年5月、米合衆国連邦議会が、帰化不能外国人の移住を禁じる条項を、出身国別移民割当条項に挿入し、「1924年移民法」(所謂ジョンソン・リード法)を成立させ、第30代大統領クーリッジ (John Calvin Coolidge Jr.) (共和党)が署名し、事実上、日本人の入国を禁止したのでした。同年、カナダも同様の動きをして、ハワイ準州を含む米合衆国、カナダへの移民、移住に終止符が打たれました。
この時点で、ハワイに在住していた日本人は永住か帰国かの判断を迫られることになり、一方で同年11月、日本の国籍法が改正され、2世の国籍放棄並びに離脱が認められました。
日本からハワイへの移民数の経緯(ビショップ博物館で以前行われた日系移民特別展示のグラフ)
その後の日米外交関係は、日本の満州での利権拡大、第2次世界大戦へと厳しい流れに引き込まれ、ハワイ在住の日本人、日系人の生活にも暗い影を落としていきました。
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関東大震災の翌年1924年、国策としての移民、移住先として北米を失った日本は、その活路を、既に移住が始まっていたブラジルなどの中南米に求め、翌年1925年には、日本政府が渡航費を補助するブラジルへの移民が始まっています。
今年110周年を迎えたブラジルへの移民。現在ブラジルには190万人の日系人が住んでいます。
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浅沼 正和Masakazu Asanuma担当講師
【インタビュー動画あり】
ハワイ在住通算27年目を迎える。2001年からビショップ博物館で日本語ドーセントのボランティアを始め、2003年に同博物館の会員組織を代表する Bishop Museum Association Council のメンバーに選出され、21年間務めた。他に、ハワイ日米協会理事やハワイ日本文化センターのBoard of Governor 等を務め、日布間の文化交流活動に従事している。海外の訪問国と地域の数は95箇所に及ぶ。