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2018.10.16

シロク・ヤマモト氏のインタビュー

ここがポイント

プランテーションでの作業中は、時間が判りません。
もちろん、高価な時計を持つこともできませんでした。そこで時間を知らせたのは、当時ハワイ諸島間を飛び始めたハワイアン航空(創業当時はインターアイランド航空)でした。

プランテーション時代の記憶

仕事の終わりはハワイアン航空で ・・・ シロク・ヤマモト(ハワイ島ニノレ生まれ)

父は日本の広島から来ました。

いつどこからかはわかりませんが。母は私が3ヶ月の時に家を出て行きました。
私の名前は、父が46歳の時に生まれたため、4と6でシロクと名付けられたようです。

 

母が出て行ったあとは父と二人でした。父は4エーカーの砂糖きび耕地を借り受け独立した農耕主でした。

 

憶えているのは、物心ついたころから馬の背中に乗せられて砂糖きび耕地に出ていました。
父は作業に集中するために私を馬の背中に帯で結びつけていました。当時は高価で個人では腕時計や懐中時計も持てません。
そこで、当時、ハワイ諸島間をハワイアン航空が飛んでおり、ホノルルとヒロの間も本土の観光客を乗せて飛んでいました。

機種はシコースキーと言う飛行船です。
父はホノルルに帰る便が午後3時にホノルルに戻ることを知っていたので、その便が頭上を飛んで行くと、そろそろ終わろうと作業を止め家に戻り晩御飯の支度をしました。

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