講座詳細
布哇日系人会館
ハワイ島で、ビーチリゾートの観光地として脚光を浴びているのは西側のコナ周辺ですが、日系人の歴史は砂糖耕地が広がっていた島の東側のヒロから北東部のホノカアにかけて多く残されています。
布哇(ハワイ)日系人会館
ハワイ島ヒロの “ Hawaiʻi Jananese Center ”
ハワイ島日系人の生の資料に出会えます
布哇日系人会館は、ハワイ島の郡庁所在地ヒロの空港近く、キラウエア火山に向かう幹線道路、カノエレフア アベニュー沿いに在ります。
ヒロ在住の日系人から譲り受けた倉庫を改装し、ハワイ島の砂糖耕地に入植した日本人とその子孫の日系人の生活を紹介する展示の他、関連する多くの資料と本、実際の生活に使われていた品々が保存されています。そして博物館としての機能ばかりでなく、この地域に住む日系人の集会や親睦の場としても使われています。
布哇日系人会館の建物
ハワイ島北東部にはかつて砂糖耕地が広がっており日本からの多くの移民が入植し、そこに定住した人達も多く居ました。そして砂糖農園の労働者として居残った人達、広大な牧場でパニオロ(カウボーイ)として働いた人、島の西部コナでのコーヒー農園に転じた人、町に出て商売を始めた人々など、多くの日系人がこの島で生計を立ててきました。
それらハワイ島の1世、2世の生活を今に残し伝えているのが布哇日系人会館です。
この会館を紹介するのには、先ず1人の先達を紹介しなければなりません。その名は大久保清。
1905年(明治38年)新潟県生まれの大久保は、1924年(大正13年)長兄の呼寄せでハワイに移住。1924年と云えば米合衆国が日本からの移民を全面的に禁止した年ですので、日本からハワイ準州への最後の移民=最後の1世の1人でもありました。ハワイ島とオアフ島で日本語新聞の記者や日本語学校の教師を務め、1955年にヒロ タイムスを発刊します。その間、長年に渡り日本人移民の資料を収集し、ハワイ島日本人移民資料保存館を設立。これが現在の布哇日系人会館の基になりました。
晩年の大久保清さん (ハワイ日系人会館の展示物より)
同会館にはハワイ島日系人の貴重な資料が数多く残されており、手に取って見ることが出来ます。移民史に関する書籍の量は膨大で、日本語學校で使用されていた教科書なども残されており、日本からも移民研究者が訪れて資料調査を行っています。
布哇日系人会館の書庫
保存されている品では、実際に使用されていた今は懐かしい台所用品から生活必需品、日本からの運搬に使った柳や竹行李など。日系人が好んだ音楽レコード、日本映画の宣伝ポスターまでが残されていて、ハワイ島に住む日系人から寄贈されたものも含め、それらの品々から当時の人々の実生活が垣間見られます。
日系人の歴史に関しては、明治時代の日本旅券の他、ハワイ島に移り住んだ元年者、五十嵐松五郎の6世までの写真や、ヒロでテイラーを始めた桑田松五郎(俗名:仕立屋マツ)の紹介も目を引きます。
(2人とも名が松五郎)
そしてもう1つ、現在熱心に会館で行われているのがお年寄りの証言録画で、過去の物を保存するばかりでなく、その史実を丹念に残す努力も続けられています。
ハワイ日系人会館に展示されている行李など
布哇日系人会館は ハワイ島日系社会の3世実業家等を中心に非営利財団として運営されていますが、オアフ島の大都市ホノルルとは又一味違った、ヒロを中心としたハワイ島日系社会の強い絆が感じられるところです。
ハワイ州観光局アロハプログラムも、この会館の運営支援を行っています。
会館の前の道を南に進むと遥かキラウエア火山に向かいます。1941年12月の真珠湾攻撃後、ハワイ島でも主要な日系人が拘留されていますが、火山国立公園内に今でも米軍保養施設として使われている Kilauea Military Camp がこの島での収容所の1つとして使用されていました。
※※2020年11月現在、館内改装の為閉館しております。
布哇日系人会館の開館日と時間は限られていますので、訪問の際は事前の確認をお薦めします。
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浅沼 正和Masakazu Asanuma担当講師
【インタビュー動画あり】
ハワイ在住通算27年目を迎える。2001年からビショップ博物館で日本語ドーセントのボランティアを始め、2003年に同博物館の会員組織を代表する Bishop Museum Association Council のメンバーに選出され、21年間務めた。他に、ハワイ日米協会理事やハワイ日本文化センターのBoard of Governor 等を務め、日布間の文化交流活動に従事している。海外の訪問国と地域の数は95箇所に及ぶ。