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カピオラニ公園
カピオラニ公園
ワイキキの東、雄大なダイヤモンドヘッドの前に広がる広大な「カピオラニ公園」。長年に渡り、市民の憩いの場として、また、様々なイベント会場として、多くの人々を楽しませてくれています。ハワイにいらっしゃる観光客の皆さんにもお馴染みの公園、その意外な歴史を紐解いてみましょう。
Hawaii State Archives
カラカウア王のアメリカ外遊がヒントに
ハワイ王国第7代国王カラカウア王は、1874年に王として選出された後、ハワイから砂糖などのハワイ産製品を無税でアメリカに輸出できる代わりに、アメリカがハワイの土地(パールハーバーなど)を取得できることに同意する「互恵条約(Reciprocity Treaty)」の締結の為にアメリカ、ワシントンD.C.へと向かいました。途中訪れたサンフランシスコ、シカゴ、ニューヨークといったアメリカの都市。そこで「公園」というものの存在を王は初めて知ります。「きれいに整えられた広い空間が都市の近くに造られ、そこに人々が集まり散策する…こういったものがハワイにもあって良いのではないか―」そこでカラカウア王のハワイ帰国後、ハワイで初めての「公園」の建設に向けた準備が始まりました。
住宅地込みの公園建設
公園の建設にあたり、1876年、ジェームズ・マキ―氏(James Makee)やカイウラニ王女の父アーチボルド・クレッグホーン氏などによって、カラカウア王の王妃、カピオラニ女王の名にちなんで「カピオラニ・パーク・アソシエーション(Kapiolani Park Association)」が設立されました。建設に必要な費用を調達するために、一口$50で計200口のファンドが売り出され、その際、カラカウア王本人も購入しています。ファンドを購入すると、公園のビーチ沿いの土地を借りて家を建築できる権利を得ることができたため、後の1880年代にはビーチ沿いに多くの豪邸が建てられていきました。
そのようにして集められた資金をもとに、植樹や遊歩道の整備が行われ、この公園のメインの役割を果たすことになる競馬場の整備も行われることになります。植樹については主にクレッグホーン氏が行っており、オーストラリアからアイアンウッド(Iron wood)を輸入して並木道を作り、それは現在も見事な姿で残っています。
歴史を感じながら歩いてみたい ©Hawaii Historic Tour LLC
当時のワイキキは広大な湿地帯。ホノルル港に到着した人々がワイキキにたどり着くには、ミュール(ラバ)が引くワゴンに乗って2時間もかかり、整備されていない砂地を行くなど大変な状態であった時代です。そこで、後に現在のカラカウア通りとなる道「ワイキキロード」を整備する必要が出てくるなど、公園を超えた土地開発も必要となる壮大なプロジェクトとなっていきました。
カピオラニ公園の誕生―ただし使用できるのは限れらた人々
ついに1877年、立派な競馬用のレーストラックを有した公園が完成しました。6月11日のカメハメハデーに、ロイヤルハワイアンバンドが音楽を奏でる大々的なセレモニーと共に、高らかに公園のオープニングが宣言されました。
Hawaii State Archives
しかし、このような華やかなオープニングを喜ぶことができたのは、実は限られた人々でした。オープン当時のカピオラニパークは、人々がピクニックをしたり、散歩をしたりというような誰でもが使える憩いの場と言えるものではなく、ファンドの購入者を中心に裕福な人々が競馬やポロなどを楽しむ場として使われており、当時、カピオラニパーク近辺に住む一般市民からは「(公園の周りには)見えない壁があるようだ」と言われるほどでした。
Hawaii State Archives
ファンド購入により公園の海側に家を持った家主のペットとして、くじゃく、きじ、鳩、鶏、オーストラリア届いたエミューなど、世界から輸入された様々な鳥が公園内で飼育されていました。また、オーストラリアからダチョウが輸入され、公園内が飼育場ともなっていました。30羽もいたダチョウからは羽や卵を取り、特に羽は帽子の飾りとして使われることから、ハワイ国内で販売されたり、イギリスに輸出されたりしていました。
王国が終焉を迎え・・・
このように、一般市民が使うことはできない、限られた人々のためだけの公園―その姿が大きく変わったのが、王国が終焉を迎えた後の1896年。ハワイが「ハワイ共和国」であった時代に、それまで公園の運営を行っていたカピオラニパーク・アソシエーションからホノルルパーク・コミッション(Honolulu Park Commission)に運営母体が移りました。その後は「市民全てが自由に使える公園」という位置づけとなり、前年の1895年には競馬のレーストラックや観客席なども全て撤収されていました。
1900年代に入る頃、競馬場だった部分は様々なスポーツが行えるような広場となり、「紳士のスポーツ」と呼ばれた野球やポロなどのスポーツが行われていました。この頃には市民の足として「ストリートカー(路面電車)」も登場し、1903年初頭にはダウンタウンとワイキキを結ぶ路線も開通。ミュールが引くワゴンで2時間かかっていたフォート(Fort)ストリートからダイヤモンドヘッドを、30分以下で結ぶことができるようになります。そこで、ストリートカーの利用者数を上げる目的もあって作られたのが、1904年にオープンしたワイキキ水族館です。路線の終着駅は水族館前に設けられ、当時の人々をホノルルの各地から、ワイキキへと運びました。現在、この終着駅を再現したものがカピオラニパークの水族館前に設置されており、当時の様子を垣間見ることができるようになっています。
屋根の下で座れるようになっており、休憩所として使われている
©Hawaii Historic Tour LLC
さらに水族館に次いで、1914年にはホノルル市によって、動物園を開業させようという動きも始まりました。主に公園内で飼育されていた数々の鳥を集めたものを1915年に小さな動物園として完成させ、トラ、熊、猿、鹿、象などの動物を集めて次第に規模も大きくなっていきました。
このようにカピオラニパークは、限れらた人々が競馬などを楽しむ場として使われていた日々から、一般市民がスポーツなども自由に楽しめる「公園」と姿を変え、さらにはワイキキロード、ワイキキ水族館、ホノルル動物園の建設にもつながり、湿地帯、そして農村だったワイキキを大きく変えていきました。
目の前にダイヤモンドヘッドが迫るこのカピオラニ公園の広場に立った時には、皆さんの目にはどんな光景が広がっているでしょうか。
©Hawaii Historic Tour LLC
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ロバーツさゆりSayuri Roberts担当講師
東京生まれ。筑波大学・比較文化学類にて北米の歴史・文化を学び、英会話スクールの講師等を経て、結婚を機にハワイへ移住。Native Hawaiian Hospitality Association主催の歴史ツアー「Queen's Tour(当時)」に参加し、ツアーガイドの方に、日本語の通訳を頼まれたことから、2004年、ガイドとして登録、研修の上、日本語の歴史ツアーを始める。2006年、「Queen's Tour」の終了を機に、ツアーの継続について主催者の了承を得て、Hawaii Historic Tour LLCを発足、「ワイキキ歴史街道日本語ツアー(当時)」(その後「ワイキキ歴史街道ツアー」に改称)を開始。2007年、「ダウンタウン歴史街道ツアー」もスタート。テレビ、ラジオ、雑誌等、メディア出演多数。 『お母さんが教える子供の英語』(はまの出版)著者。