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2020.06.16

サンフォード・ドール

ここがポイント

サンフォード・ドールは宣教師&教育者の息子としてハワイに生まれ、弁護士として活躍した後、ハワイ王国議員に。王国崩壊後、ハワイ共和国初代大統領&ハワイ準州知事となった。

サンフォード・ドール
 

宣教師の息子としてハワイに生まれる

ハワイ王国崩壊から始まった激動のハワイ史を学ぶ人なら、サンフォード・ドールの名を必ず耳にしたことがあるでしょう。白人勢力を中心とした勢力がクーデターにより王国を倒し、臨時政府を樹立したのが1893年。その臨時政府と、続いて設立されたハワイ共和国の初代大統領に就任したのがドールでした。

さらにハワイが1900年にアメリカの準州になると、ドールはそのままハワイ準州の知事に就任。つまりドールは、ハワイ王国崩壊からハワイのアメリカ併合まで動きの、ごく中枢にいた人物というわけです。


〔Photo Courtesy of Hawaii State Archives〕

ドールは1844年、アメリカのメイン州からハワイに移ったプロテスタント宣教師、ダニエル・ドールの次男として、ホノルルで生まれました。ダニエル・ドールは宣教師であると同時に教育者でもあり、1841年にオアフカレッジ(現プナホウスクール)を創設して初代校長に就任し、後にカウアイ島コロアでも学校を立ち上げています。

そのためドールは11歳までホノルル、11歳から22歳までをカウアイ島で過ごし、ハワイ語も堪能。ハワイアンの友人に囲まれて幼少期を過ごしました。ちなみにドール氏が生まれた年は、ボストンから初めてハワイにプロテスタント宣教師がやって来てから24年目。時はカメハメハ3世の治世で、欧米からの入植者が増加し、砂糖きび産業の成功などにより力をつけ始めていた時代でした。

その後、ドールはマサチューセッツ州のウィリアムカレッジに入学し、同州で弁護士資格を獲得します。当初は父が望んだ聖職者になる予定が、後に専攻を変え、弁護士としてハワイに帰還。法曹家として成功を収める傍らで政治家としての道を模索し、1884年にはカウアイ島コロア選出の王国議会議員に初当選しています。

〔中央がドール。Photo Courtesy of Hawaii State Archives〕
 

アメリカ併合の強力な推進者


当時は王国7代目の君主、カラカウア王の治世でした。ハワイの主要産業だった砂糖きび産業が傾き始め、(関税なしにアメリカに砂糖を輸出するため)アメリカへの併合論が強まっていた時代です。ハワイアン連盟、改革党など王政の打倒を目指す政治結社がいくつも生まれ、王権が揺らいでいたその頃、ドールは改革党の主要メンバーとして活躍。

悪名高い銃剣憲法(改革党を中心とする白人勢力の武力の脅しにより、カラカウア王が受け入れた新憲法。王の権利や権威をほぼ取り去る結果となりました)が1887年に発布された時、その草案を手がけた一人だという説もあります。

銃剣憲法発布後、ドールは王国の最高裁判所長官に就任しますが、1893年の白人勢力によるクーデターで王国が倒れる直前に辞任。リリウオカラニ女王が退位すると臨時政府の代表となり、アメリカ併合に向けて準備を進めることになります。実はハワイ王朝転覆はハワイ在住のアメリカ公使の後ろ盾を得て実行されたもので、その後のアメリカ併合という青写真が、すでにでき上がっていたからです。
 

アメリカ大統領にも屈服せずハワイ共和国を設立


ところが当時のクリーブランド大統領は、ハワイ王国崩壊についての調査官をハワイに送り、親米派により、ハワイ王国とリリウオカラニ女王に対する不法行為があったと結論。ハワイ併合案の審議を拒否しました。同時にリリウオカラニ女王の復権と臨時政府の解散を求めましたが、ドールはそれを「アメリカによる内政干渉だ」と主張し、拒絶したのです。そして翌年にはハワイ共和国を樹立し、初代大統領に就任しました。

〔イオラニ宮殿前で共和国樹立宣言を読むドール(中央)。Photo Courtesy of Hawaii State Archives〕


その裏には、その時点でアメリカ併合をごり押しせず、クリーブランド政権が終わって次の大統領が就任するまで待とうとの計画がありました。アメリカ大統領が相手でも怯まず好機を待とうとしたドールは、かなりしたたかな政治家、かつ優れた法曹家だったことが伺えます。

事実、ドールの読みは当たり、1897年にクリーブランド大統領の任期が終わりマッキンリー大統領の時代になると、ハワイ併合への審議が活発化します。18988月、ついにアメリカの議会はハワイのアメリカ併合を可決。1900年、ハワイは正式にアメリカの領土(準州)となり、ドールが準州知事に就任したのでした。
 

ドールとリリウオカラニ女王の関係は?


以上述べてきたように、ハワイ王国の崩壊に大きく関わったドール。一般に「ハワイ王国崩壊の立役者」「悪役」ともみなされるドールですが、ハワイ最後の女王、リリウオカラニとの関係は良好だったと見る人がいます。たとえば、王国崩壊時にリリウオカラニの身の安全が守られたこと。さらにその2年後の1895年、一部のハワイアンがクーデター計画を立て、リリウオカラニが逮捕された際、5年間の禁固刑に処されたリリウオカラニが8カ月足らずで釈放された時にも、ドールの力があったとされています。

〔アメリカ併合記念式典でのリリウオカラニ女王とドール。Photo Courtesy of Hawaii State Archives〕

実際、リリウオカラニはその自伝で、ドールの責任のもとに自分が禁固生活から仮釈放されたことを明らかにしています。しかも仮釈放期間が終わり、正式に刑期を終えたリリウオカラニが、ドールによってアメリカ本土とイギリスへの旅を許可されたという興味深い事実も。リリウオカラニがドールの自宅を訪ねて旅行計画を告げると、ドールはリリウオカラニと同伴者一行のパスポートを早急に届けることを約束したそうで、自伝にはその際のドール&妻とのやり取りがごく好意的な筆致で記されています。

ハワイの運命を永遠に変えた人物の一人、ドールですが、リリウオカラニとの良好な関係は、ドールのもう一つの側面を語るものともいえそうです。
 
  • 森出 じゅん
    Jun Moride
    担当講師

    【インタビュー動画あり】
    オアフ島ホノルル在住。横浜出身。青山学院大学法学部卒業後、新聞・雑誌・広告のライターとして活動。1990年、ハワイ移住。フリーランスのジャーナリストとして活動する傍ら、ハワイの文化や歴史、神話・伝説、民間伝承を研究中。単に「美しいハワイ」にとどまらないハワイの奥深い魅力、真の姿を日本に発信すべく、執筆を続ける。イオラニ宮殿日本語ドーセントも務める。著書に「ミステリアスハワイ」(ソニー・マガジンズ刊)、「ハワイの不思議なお話」(文踊社刊)、「やさしくひも解くハワイ神話」(フィルムアート社刊)、「Hawaii 神秘の物語と楽園の絶景」(パイインターナショナル)がある。
    森出じゅんのハワイ不思議生活 http://blog.goo.ne.jp/moridealex

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