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所用時間5min
2020.12.25

歴代のハワイ州知事―5代目から8代目の現在まで―

ここがポイント

1994年以降の第5代目知事から現知事まで、生い立ち、成し遂げたこと、時代背景などを詳しく学びます。


ハワイ州第五代目知事
ベンジャミン・ジェローム・カエタノ(Benjamin Jerome Cayetano)
1994年~2002年



支持政党:民主党
前職、就いた主な職業:弁護士、ハワイ州下院議員、ハワイ州上院議員、副州知事
1939年11月14日ハワイ州ホノルル市生まれ

フィリピン人移民の父を持ち、ホノルルで生まれたカエタノ氏。6歳の時に両親が離婚、父に育てられますが、家は貧しく、何度か法に抵触するようなことをすることもありました。成績も振るわず、なんとか高校を卒業して間もなく18歳で結婚、19歳で父となったカエタノ氏は、トラックの運転手、肉体労働など、あらゆる仕事をして家族を支えました。しかし、大学に行けばより良い仕事に就けるのだと一念発起し、1963年、家族と共にロサンゼルスへ引っ越し、1966年にカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)への入学を果たしました。その後、法律を学ぶためにロヨラ大学法学部に入学し、卒業にあたってハワイの法律事務所に就職が決まり、ハワイに戻りました。


1972年、低所得者を対象とした公共住宅の管理、および開発を担うハワイ州住宅局に勤めることになり、それがハワイの実情を知る機会をカエタノ氏に与え、政治の道に入るきっかけとなりました。1974年の選挙で、ハワイ州下院議員に当選し2期に渡って務め、1979年から州上院議員も務めた後に、1986年、副州知事に当選、1994年の知事選に立候補して勝利し、アメリカで初となるフィリピン系アメリカ人の知事誕生となりました。

教育の大切さを訴える


成績が振るわなかった高校時代から、大変な努力の末のUCLAへの合格、そして法学部への入学、卒業を経験しているカエタノ知事は、副州知事時代から教育に重点を置き、「Aプラス・プログラム」の企画および実施に携わりました。Aプラスは、アメリカ初となる公立の学童保育プログラムで、公立学校に通う多くの子供たちが現在も利用しています。また、公立学校に対する予算削減にも否定的で、1997年には、教師の賃金を上げる代わりに、公立学校での授業日数を年7日間増やしました。2001年に起こった教師や大学職員によるストライキを経て、教師の賃金を1997年の年$25,000から、2002年には$34,300まで大幅に増やしています。

明確となったサトウキビ産業の衰退と観光業の飛躍

かつてはビッグ・ファイブを中心に、ハワイの経済の大きな柱となっていたサトウキビ産業は、カエタノ知事時代にその衰退が明らかとなっていきました。117年続いたハマクア・シュガー・カンパニーが、1994年には最後となるサトウキビの収穫を終え、同年、ワイアルア・シュガー・カンパニーも、それから1年半かけて閉鎖することを発表。翌95年には、オアフ・シュガー・カンパニーも98年の歴史に幕を閉じ、同年、ハワイ島における砂糖生産も終了しました。ビッグ・ファイブの一つ、Amfacも、2000年にカウアイ島での砂糖生産を終了、2002年に破産しました。

一方、観光業は好調で、1996年にはハワイ島コナへの日本からの直行便が就航、日本からの観光客数が初めて200万人となりました。それに先立ち、1994年にはアロハタワー・マーケットプレイス、98年には、大規模な会議やイベントに対応できるハワイ・コンベンション・センターが完成、翌99年には、パールハーバーにて、戦艦ミズーリ記念館がオープンするなど、多くの観光客を世界から迎え入れる準備が着々と進んでいました。

そのような中、2001年9月11日にアメリカ同時多発テロ事件が起き、ハワイの観光業は一時大きな打撃を受けることとなりましたが、ハワイの経済成長は緩やかに続き、2002年にカエタノ氏が退任する時点で、ハワイの失業率は4.2%と、当時のアメリカ国内で最も低い数字となりました。



ハワイ州第六代目知事
リンダ・リングル(Linda Lingle)
2002年~2010年



支持政党:共和党
前職、就いた主な職業:新聞「モロカイ・フリー・プレス」発行人、、ハワイ共和党議長、マウイ郡長
1953年6月4日ミズーリ州セントルイス生まれ

ミズーリ州セントルイスで育ったリングル氏は、カリフォルニア州立大学にてジャーナリズムを学んだ後、1975年にハワイへ移りました。モロカイ島に居を定めてから、新聞「モロカイ・フリー・プレス」を発行し、編集・発行人として活躍しました。1980年、マウイ島郡議会議員に選出されて政治の道に入り、1990年にはマウイ島郡長に選ばれます。当時37歳、最年少で郡長の座についただけでなく、初めての女性、初めてマウイ生まれでない人物が知事になったことで注目されました。1998年の知事選に立候補するも、当時現職のカエタノ知事に敗れますが、2002年の知事選では、副州知事であったメイジー・ヒロノ氏と選挙を戦った末に勝利し、第6代ハワイ州知事となりました。

リングル知事は、マウイ島郡長時代にも、最年少、初の女性であり初のマウイ生まれでない郡長として注目されましたが、知事に選出されると、ハワイで初の女性知事というだけでなく、初めて郡長から知事となったこと、さらに、ハワイが州となった際のクイン知事以来、40年ぶりの共和党出身の知事ということでも注目されました。2006年の知事選でも再選され、2期に渡って知事を務めています。

多様な地域から観光客を迎えるために

マウイ島郡長時代には、マウイ島の観光業発展に努めていたこともあり、知事となってからも、ハワイの観光業発展に注力しました。日本からの観光客数がそれまでに大きく伸びていましたが、リングル知事は多様な地域から観光客を迎えることを目指し、経済発展が著しい中国からの観光客を迎えるために、準備として自ら中国6都市を巡り、交渉を重ねました。2008年には、中国におけるハワイへの団体旅行の企画・販売促進が許可され、中国とハワイ間の直行便の就航も決まりました。

新たな公共交通機関の建設に向けて

ハワイの人口は毎年緩やかに増え続け、1950年には50万人弱だった人口が、70年には77万人、90年には119万人、そしてリングル知事が就任する2002年の段階でおよそ122万人となっていました。人口増加に伴い、特に人口の集中するオアフ島における交通渋滞が深刻化しており、2006年12月、ホノルル市議会が、オアフ島における大型輸送交通機関の建設を認可しました。高架の上を無人の電車を走らせるという、新たな交通機関の建設については、後のホノルル市長選でも繰り返し賛否が問われていましたが、2011年に着工。オアフ島西部の街カポレイからアラモアナセンターを結ぶ32㎞、オアフ島の南海岸に沿って21の駅を持つレールの建設が、開通に向け進んでいます。




ハワイ州第七代目知事

ニール・アバクロンビー(Neil Abercrombie)
2010年~2014年



支持政党:民主党
前職、就いた主な職業:教師、ハワイ州下院議員、ホノルル市議会議員、アメリカ連邦議会下院議員
1938年6月26日ニューヨーク州バッファロー生まれ

ニューヨーク州に生まれ、大学までニューヨークで社会学を学んだ後、1959年9月、州となって間もないハワイに居を移しました。ハワイ大学マノア校にてアメリカ研究で博士号を取得し(クラスメイトはオバマ元大統領のご両親でした)、小学校の先生、大学講師を務めた後に、1974年にハワイ州下院議員に、1978年からはハワイ州上院議員を務め、1986年からはアメリカ連邦議会下院議員としてワシントンD.C.に移りました。2年後にハワイに戻ってからは、ホノルル市議会議員を経て2010年の知事選に立候補、当時副州知事であったデューク・アイオナ氏を破り、第7代ハワイ州知事となりました。

ハワイ出身のオバマ大統領(任期:2009年~2017年)と歩みを共にしていたアバクロンビー知事。ハワイの主要産業は農業から観光業に移った後、観光客数は2011年の段階で700万人を超えました。その後、毎年、前年を上回る人数を数え、アバクロンビー知事の任期中の4年間で、800万人をゆうに超えるまでとなっていきました。そのような中でも、予算削減や、看護師を含め、公務員の給与カットを提言するなど、批判を浴びつつも、州の財政危機に立ち向かおうとする姿勢を見せました。オバマ大統領から「(アバクロンビー氏は)私の家族のような存在だ」との言葉を受け、2014年の知事選では、同大統領からの支持も得た上で立候補しましたが、当時ハワイ州上院議員だったデイビッド・イゲ氏が選挙では勝利し、アバクロンビー知事の任期は1期にて終了し、次期知事にバトンを渡すことになりました。

マイノリティーとされていた人々に平等な権利を

アバクロンビー知事が、任期中に署名した法の中で特に注目を集めたものが、同性婚の合法化です。1991年、ハワイにて3組の同性同士の結婚申請が却下されたことが訴訟に発展し、その後ハワイ州最高裁でまで審議されました。1993年、ハワイ州最高裁において、同性による婚姻を禁ずるのは差別にあたるとの判決が出てから20年以上の間、宗教的保守派からの反対の中で裁判や議論が行われていましたが、アバクロンビー知事の積極的な働きかけにより、ハワイ州上・下院議会にて同性婚を認める法案が可決。2013年に知事が署名し、アメリカでは15州目となる、同性婚の合法化が実現しました。社会の中ではマイノリティーとされ、人として同等の権利を主張できなかった人々に光を当てることができたことを、アバクロンビー知事はインタビューで、当時を振り返りながら涙ながらに語っています。

セレブリティーにもハワイを楽しむ権利を

また、同年、いわゆる「スティーブン・タイラー法」が可決されました。マウイ島でのバケーション中に、パパラッチによって写真を撮られ、無断で雑誌に掲載されたことにより、プライバシーを侵害されていると主張していた歌手、スティーブン・タイラー氏が、ハワイ州上院議員に相談したことが発端となり審議が始まりました。結果として、ハワイでバケーションを楽しむセレブリティー、有名人に対し、無断で写真を撮影、営利目的で使用するなどした場合、撮影された側が訴訟を起こすことを可能にしました。


ハワイ州第八代目知事
デイビッド・ユタカ・イゲ(David Yutaka Ige)
2014年~



支持政党:民主党
前職、就いた主な職業:電気技師、ハワイ州下院議員、ハワイ州上院議員
1957年1月15日ハワイ州パールシティ生まれ

アメリカ国内初となる沖縄人の血を引く知事であるイゲ知事は、6人兄弟の五男としてパールシティで生まれ育ちました。ハワイ大学マノア校にて電気工学を学び、電話会社に勤めながら経営学で修士号を取得し、エンジニア、プロジェクト・マネージャーとして活躍しました。1985年、当時のアリヨシ知事の任命により、ハワイ州下院議員として政治の道に入り、1994年の選挙でハワイ州上院議員も務めます。2014年の知事選にあたり、当時現職で、再選を目指していたアバクロンビー知事を破って民主党候補となり、本選挙で共和党候補の元副州知事、デューク・アイオナ氏を破り、第8代州知事となりました。2018年の知事選でも再選を果たし、2022年の任期終了まで、現職の知事としてハワイをリードしています。


イゲ知事の功績など、詳しくは2022年の任期終了後に記載します。


第5代目知事から現知事の時代に至る間に、かつてハワイの経済を支えたサトウキビ産業が最後の日を迎え、観光業が飛躍的に伸びていくという、ハワイ経済の主力の転換が明確になりました。また、気候変動により洪水や台風・大雨被害、侵食地点が増えるなど、自然への対応を迫られる中、プラスチック製品の使用の禁止を含めて、自然環境対策も同時に進めていく、そしてハワイの社会は様々な新たな挑戦の中にあります。その社会の舵取りを担ってきた各知事を一人ずつたどることで、社会のおおまかな流れを知るきっかけになります。気になる時代が見つかったら、その時代の様子をさらに掘り下げて学んでみてはいかがでしょうか。

(各知事のイメージについては、州知事室のThe Executive Chamber内に掲示されている肖像画、イゲ知事の写真はハワイ州公式ウェブサイトから抜粋しています。)

(2020年12月現在)
  • ロバーツさゆり
    Sayuri Roberts
    担当講師

    東京生まれ。筑波大学・比較文化学類にて北米の歴史・文化を学び、英会話スクールの講師等を経て、結婚を機にハワイへ移住。Native Hawaiian Hospitality Association主催の歴史ツアー「Queen's Tour(当時)」に参加し、ツアーガイドの方に、日本語の通訳を頼まれたことから、2004年、ガイドとして登録、研修の上、日本語の歴史ツアーを始める。2006年、「Queen's Tour」の終了を機に、ツアーの継続について主催者の了承を得て、Hawaii Historic Tour LLCを発足、「ワイキキ歴史街道日本語ツアー(当時)」(その後「ワイキキ歴史街道ツアー」に改称)を開始。2007年、「ダウンタウン歴史街道ツアー」もスタート。テレビ、ラジオ、雑誌等、メディア出演多数。 『お母さんが教える子供の英語』(はまの出版)著者。

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