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所用時間5min
2021.03.26
フォート・デルッシー
ここがポイント
高層ビルが建ち並ぶワイキキの地に、広大な広場や博物館を持つフォート・デルッシー。この地の歴史や見どころなどを学びます。
想像してみましょう。
ワイキキで休暇を過ごすあなたは、ダニエル・K・イノウエ空港に到着し、リムジンバスでワイキキへと向かいます。バスはカラカウア通りに入り、アラワイ運河にかかる橋を越えるとすぐに、道の名ともなっているカラカウア王の銅像があなたを迎えてくれます。
銅像を越えてすぐ右手に見えてくる、広大な公園のような場所、そこが「フォート・デルッシー(Fort DeRussy)」です。
フォート・デルッシーはアメリカ軍の所有地で、軍のレクリエーション・センターとされています。敷地内には、ビーチパーク、バレーボールコート、子供用遊具、バーベキューグリル、遊歩道などがあり、一般の人々も使用可能となっています。818部屋を持つリゾートホテル、「ハレ・コア・ホテル(「戦士の家」、ハレ:家、コア:戦士)がフォート・デルッシーの地に1975年に開業しており、こちらは軍関係者が宿泊できるホテルとなっています。さて、広大な公園のようなこのフォート・デルッシーには、どのような歴史があるのかを見てみましょう。
豊かなカリアの地
フォート・デルッシーのある場所は、ワイキキの西部、かつて「カリア(Kālia)」と呼ばれた場所です。現在もカリアの名は道の名として残っており、カリア・ロードがフォート・デルッシーを通っています。かつては、ワイキキの北部に広がる谷、マキキ(Makiki)、マノア(Mānoa)、パロロ(Pālolo)からワイキキの海に向かって流れる川によって、カリアの地には肥沃で大きなデルタ地帯ができており、豊かな農作物と魚介類が手に入るこの地には、古代からハワイアンが居住していました。
ワイキキを流れていた3つの川の一つ、ピイナイオ川(Pi‘inaio)がカリアを流れており、1400年代に入った頃、ワイキキに住む人々はその流れ来る水を使って、タロイモ畑でタロイモを栽培したり、魚の養殖場を作りました。
(ワイキキの北側に広がる山脈と、マノアなどの谷)
アフォング・ヴィラ
フォート・デルッシーの土地の一部、12,000㎡を超える広大な土地に、ハワイ初の中国人大富豪、チュン・アフォング氏の豪邸が建てられ、王族、外交官、軍の指導部など、権威ある人々を呼んでのパーティーがよく開かれていました。その豪邸は「アフォング・ヴィラ」と呼ばれていましたが、このアフォング氏とは、どのような人物だったのでしょうか。
チュン・アフォング(Chun Afong)/チェン・ファング(Chen Fang)
(アフォング氏)
1825年、中国南部のマカオに隣接する、現在の広東省珠海市に生まれ、14歳で香港とマカオで叔父からビジネスの仕方を学んだアフォング氏は、24歳の時に叔父と共に、中国製品を輸送するビジネスを始めました。1849年にハワイに移住、ハワイ語と英語をすぐに話せるようになり、ホノルルに中国製品を売る店舗も構えました。
当時、ハワイの砂糖産業が伸びている頃で、1852年からは、プランテーションで働く労働者としての中国人の移住も始まりました。アメリカ南北戦争で、アメリカ南部からの砂糖供給が止まったアメリカに、ハワイ産砂糖を輸出することで、ハワイの砂糖産業が活気づいたところ、アフォング氏は、商店経営で8年間かけて貯めたお金を全てハワイの砂糖産業に注ぎ込み、その目論見が大当たりとなりました。
1857年、アフォング氏は32歳になる年に、当時17歳でハワイの王族の血を引くジュリア・フェアウェザー氏と結婚し、16人の子供(内、13人は娘)に恵まれました。
(アフォング夫人、ジュリア・フェアウェザー氏)
アフォング氏は砂糖、米、不動産業の他、アヘンの独占販売権を所持して大変な富を築きあげ、ハワイ在住の中国人で最も裕福な人物となりました。また、夫人が王族の血を引く人物であることから、ハワイの王族とも近しく、カメハメハ4世とエマ女王の結婚パーティーをも取り仕切りました。後に、65歳で故郷の珠海市に戻り、学校の建設や水道の敷設など、市の発展に大きく寄与し、同市においても名を残した人物です。
アフォング氏の本来の名前は、チェン(姓)・ファング(名)ですが、ハワイに上陸するにあたっての手続きの際、係官が聞き取った音により、チュン・アフォングとなりました。日本と同様に姓を先に言ったことで、本来、下の名となるはずのアフォングが、ハワイでは姓として使われていました。
(アフォング・ヴィラとフォート・デルッシーの歴史が書かれた歴史の指標)
アメリカ陸軍がカリアの土地を購入
1898年、アメリカとスペインとの間に戦争が勃発し(米西戦争)、カリブ海と太平洋、フィリピンとマニラ湾が戦場となりました。同年、ハワイがアメリカに併合されたこともあり、太平洋上での戦争において、ハワイが位置的に重要な役割を果たすだろうことに気付いていたアメリカ軍は、ハワイがアメリカの準州となってすぐに、オアフ島各地に軍事施設を建設するために土地の買収を進め、1904年、およそ29万㎡の広大なカリアの土地が軍用地となりました。
軍用地となったカリアの地には、巨大な魚の養殖場があり、さらにそこは湿地帯であったために、1906年にアメリカ陸軍省は、1年かけてこの地を埋め立てました。1909年に「ホノルル地区砲兵隊」が結成され、オアフ島各地にフォート(砦、要塞)が造られていきます。その一つが、「フォート・デルッシー」でした。(他は、ダイヤモンドヘッドのクレーター内に設置されたフォート・ルーガー(Fort Ruger)、パールハーバーに隣接する地に設置されたフォート・カメハメハ、ホノルル港を守るためにカカアコに設置されたフォート・アームストロング(Fort Armstrong)など)
デルッシー(DeRussy)とは?
フォートの名となっているのは、多くはアメリカの戦史上有名な人物の名で、フォート・デルッシーは、1812年の南北戦争で北軍の陸軍准将を務めたルネ・エドワード・デルッシー(Rene Edward DeRussy)の名から付けられています。
(ルネ・エドワード・デルッシー氏)
フォート・デルッシーに設置された砲台
フォート・デルッシーには、パールハーバーとホノルル港を守るために、1909年から1911年にかけて、ランドルフ砲台(Battery Randolph)とダッドリー砲台(Battery Dudley)が築かれました。有事の際、砲台内の兵士を守るために、砲台の上部のコンクリートは厚さ約3.6m、海側の壁は厚さ9mで造られており、ランドルフ砲台には、当時のハワイ準州最大の、射程22㎞を超える大砲が2基、ダッドリー砲台にも大砲が2基設置されました。
1914年11月に大砲の試験発射が行われましたが、衝撃波で近隣の住宅やホテルの窓が割れる被害が出たため、その後、この場所から大砲が撃たれることはほぼありませんでした。
第二次世界大戦後は、大砲は細かく切断されてスクラップとして売却され、砲台は倉庫として使われるも、その後放棄される形となります。後に、ダッドリー砲台は解体されますが、頑丈なランドルフ砲台は、1969年にアメリカ陸軍が破壊しようとしても歯が立たず、ダイナマイトを使う案も出ましたが、住宅やホテルへの被害や影響を鑑みた上で諦め、建物は改装されて、「アメリカ合衆国陸軍博物館(U.S. Army Museum of Hawaii)」に生まれ変わり、1976年12月7日に開館の日を迎えました。
(陸軍博物館の全体像)
博物館は入場無料となっており、第二次世界大戦中のハワイの様子や、日系人部隊、アメリカ軍において活躍した人々など、多くの写真と展示物で、戦争の歴史を学べるようになっています。館外にはハワイ王国時代の1831年にパンチボウルに設置されていた大砲や、戦車なども展示されています。
(ハワイ王国時代の大砲)
(戦車。手前のものは日本軍が使っていたタイプの戦車)
開館時間など、詳しくはこちらでご確認ください。
フォート・デルッシーを散歩
ビーチや博物館を備えたフォート・デルッシーには、遊歩道がいくつも作られており、車の往来を心配することなく、とても気分よく散歩することができます。様々な植物が植えられており、季節ごとに違った風景を楽しみながら歩けるのも魅力の一つで、特に5月から9月の間は、シャワーツリーが見事な姿を見せてくれます。
ビーチの近くには子供用の遊具もあり、地元の子供達と観光で来られた家族が、一緒に遊ぶ姿がよく見られます。
また、カラカウア通りの近くには、アメリカのために命をかけた日系人部隊を称えるモニュメントも設置されています。
モニュメントについて詳しくはこちらをご覧ください。
様々な植物や美しい風景を眺めながら、同時に歴史にも触れることができるフォート・デルッシー。ワイキキを訪れる機会があれば、ぜひこの地をゆっくりと散歩してみてください。
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ロバーツさゆりSayuri Roberts担当講師
東京生まれ。筑波大学・比較文化学類にて北米の歴史・文化を学び、英会話スクールの講師等を経て、結婚を機にハワイへ移住。Native Hawaiian Hospitality Association主催の歴史ツアー「Queen's Tour(当時)」に参加し、ツアーガイドの方に、日本語の通訳を頼まれたことから、2004年、ガイドとして登録、研修の上、日本語の歴史ツアーを始める。2006年、「Queen's Tour」の終了を機に、ツアーの継続について主催者の了承を得て、Hawaii Historic Tour LLCを発足、「ワイキキ歴史街道日本語ツアー(当時)」(その後「ワイキキ歴史街道ツアー」に改称)を開始。2007年、「ダウンタウン歴史街道ツアー」もスタート。テレビ、ラジオ、雑誌等、メディア出演多数。 『お母さんが教える子供の英語』(はまの出版)著者。
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