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2020.10.23

第1次世界大戦中のハワイ

ここがポイント

ハワイ準州と、そこに住む日系人にとって、20世紀初頭はどんな時代だったのか


第1次世界大戦は、1914年(大正3年)から1918年(大正7年)にかけ、欧州を中心に多くの国を戦火に巻き込みました。
日本は早くからドイツに対して宣戦布告をしていますが、アメリカ合衆国が宣戦布告したのは1917年になってからのこと。しかし、太平洋ではドイツ東洋艦隊が米西海岸に接近することを警戒し、早くから日本海軍が米本土近くで哨戒活動にあたっていました。
 
1次大戦下のハワイ準州 ( Territory of Hawaii ) が直接戦火に巻き込まれることはありませんでした。
5財閥を中心としたハワイの砂糖産業は世界大戦の頃、1910年代には総生産量を落とすものの、20年代には飛躍的に生産量と米本土への輸出量を伸ばし、準州の主産業であることには変わりなく、まだ海外からの労働力を受け入れていた時期でした。
砂糖生産に加え、ドールによるパイナップル農園が始まったのもハワイが準州になってからすぐのことです。
 
1次大戦が始まるとハワイではまず赤十字による支援の動きが始まります。軍としては太平洋に展開するドイツ艦隊対応があったのでしょうが、上述の日本海軍戦艦の寄港を受入れています。
1917年に米国が宣戦布告して以降は軍の召集や志願兵募集が行われ、準州兵も動員され、ホノルル港では海からの攻撃を回避するために夜間消灯が実施され、一般生活では食料品の制限や禁酒が行われたとのこと。
島々が戦場になることはなかったものの、米国の準州として種々の制限や軍事的な動きがあり、大戦に関わる人の移動に伴い1918年から世界中に蔓延したスペイン風邪がハワイにも大きな影響を及ぼしました。



(これはワイキキのU.S.アーミー博物館に展示されている、ダイアモンドヘッドを背景にした日本海軍巡洋艦「淺間」の写真です。1920年頃に撮られたものですので、第1次世界大戦中のものではありませんが、当時のイメージとしてはこんな様子であったのでしょう)

さて、世界大戦を含む20世紀始めの出来事と、日本からの移民の歴史を重ね合わせてみましょう。
1900年にハワイが正式に米国の一部になると、それまでのように移民斡旋会社が介して労働者を募る「私約移民」が禁止されますが、砂糖農園での労働力を必要とするハワイへの移民は「自由移民」として継続されます。
1907年以降は、カリフォルニアでの排日運動を抑え込む目的で、日本から米国への労働者への旅券発給を制限する紳士協約を結んだことにより、既に米国内に住む人が家族を呼び寄せるなどの「呼寄せ移民」のみ許可される時代となり、移民が全面禁止される1924年まで継続されます。
従って、第1次世界大戦下でもハワイ準州の日系人口は増え続けていきました。
因みに、米国がドイツに宣戦布告した1917年のハワイ準州総人口は約25万人。その内日本からの居住者(日本国籍を有する2世も含む)は10万人程度に達しています。


(ワイキキ近くのキャンベル通り ( Campbell St. ) に残るワイキキカパフル日本語學校を示す碑。1908年創立の学校ですので、これも第1次世界大戦当時を思い起す場所の1つです)

そして、大戦によるインフレ、スペイン風邪の流行、戦後の物価高騰の中で、砂糖農園での賃上げと労働条件見直しを迫る労働者のオアフ全島ストライキに向けて準州内の日系社会が勢いづいていきました。

(第1次世界大戦の後、ストライキで砂糖農園での労働を放棄し、ホノルルのダウンタウン、現在のアアラ公園山側に集まった労働者達。手前がヌウアヌ川で、ベレタニア通りにかかる橋が見える。奥は当時の山城旅館。現在はこの川の右(東)側に中華街と孫文の碑がある。ハワイ日本文化センター「おかげさまで」の展示物より)

遡ってみると、明治政府とハワイ王国が契約を結んで始まった「官約移民」は1885年(明治18年)から10年間継続され、3万人弱の日本からの移民がハワイに渡っています。その内の4割ほどが定住し、第1次世界大戦の頃には、現地で生まれた子供達、すなわち米国籍を有する2世の中には、既に成人した人達も居ました。
第1次世界大戦中、戦地に赴くことはなかったものの、ハワイで入営した日系人が800人ほど居り、その内約半数が日本生まれの人(1世)でした。
米国の日系兵士として先ず頭に浮かぶのは、第2次世界大戦中に欧州戦線で多くの血を流した100大隊や442連隊、通訳兵として太平洋戦争に参戦したMIS ( Military Intelligence Service ) ですが、実は第1次大戦時のハワイでも日本人、日系人の米国への志願兵が居たことも忘れてはいけない事実です。
 

それでは現在、準州時代初頭から第1次世界大戦の時代を思い起せるものは、オアフ島のどこで見ることが出来るか?  
例えばーー


ワイキキのモアナホテルが開業したのが1901年ですので、第1次世界大戦時には既に営業していました。現在のモアナサーフライダーの旧館部分です。

(1902年のものと思われるモアナホテルの写真: ビショップ博物館の以前の展示物より)

ホノルルのダウンタウンでは、イオラニ宮殿横、現在、ハワイ州立美術館 ( Hawaiʻi State Art Museum ) が入る白亜の建物。大戦当時はYMCAが運営する米国兵士の宿泊施設として使われていました。

(サウス ホテル通り ( South Hotel St. ) のイオラニ宮殿側の角に在る No. 1 Capitol District と書かれた白亜の建物は元々ホテルとして建てられ、現在はハワイ州立美術館の他、上層階は州産業経済開発観光局 ( DBEDT ) が使用している)

米国の第25代大統領ウイリアム マッキンリー ( William McKinley ) がハワイ併合を行った後、後任のセオドア ルーズベルト大統領 ( Theodore Roosevelt ) が準州の軍事力強化を推進し、オアフ島の周囲に陸海軍の基地や砲台を建設しました。必ずしも第1次世界大戦中に造られた軍事施設ではないものの、その幾つかが現在も残っています。
 
先ずは、ダイアモンドヘッドの海側にそびえる頂。太平洋を限りなく一望出来、ワイキキを鳥瞰図のように眺められる、コンクリートで固められた場所はかつて軍の警戒監視所でした。1900年初頭に造られたもので、火口内も全て軍の所有地になりました。
火口壁の内部には壕が張り巡らされ、一般の人は立ち入れないものの、現在もハワイ州やホノルル市の緊急時対応機能や赤十字の倉庫などに使われています。
ダイアモンドヘッド周辺はフォート ルーガー ( Fort Ruger ) と呼ばれる基地で、ワイキキからカピオラニ公園と動物園の間のモンサラット通り ( Monsarrat Ave. ) を登り、ダイアモンドヘッドとカピオラニ コミュニティー カレッジ ( KCC ) に至る道の両側に、この基地が造られた当時の石の門が今も残されています。
米国赤十字ハワイ支部の前を通り、この道を更に進むと現在もハワイ州陸軍 ( Hawaii Army National Guard ) 司令部があります。


ワイキキに目を移すと、ヒルトン ハワイアン ビレッジからルーワース通りのワイキキ郵便局にかけて広い緑地が残されています。フォート デリュッシー ( Fort DeRussy ) と呼ばれる軍の敷地ですが、ここもハワイが準州になってから造られた基地でした。
その海岸沿いに陸軍博物館 (U.S. Army Museum of Hawaii ) がありますが、この建物には海からの攻撃に備えるために1911年(明治44年)に米国陸軍が完成させたランドルフ砲台 ( Battery Randolph ) が利用されています。入口とは反対側、海側から見ると確かに人工的に小高く造成された場所であることが分かります。

(U.S.陸軍博物館)

最後に話題を第1次世界大戦当時に戻しますが、米国が宣戦布告をした1917年(大正6年)の11月、ワシントン プレイスで静かに余生を送っていたハワイ王国最後の女王、リリウオカラニ ( Liliʻuokalani ) が79歳で他界しています。ハワイの歴史における一区切りであったのかもしれません。

(ハワイ王国最後の女王 リリウオカラニ、 写真提供:ビショップ博物館)

ところで、オアフ島を一周すると、海岸近くにコンクリートで堅固に造られた砲台跡を見かけることがあります。これらは第1次世界大戦下のものではなく、第2次世界大戦時に日本軍の攻撃から島を護る目的で造られたものがほとんどです。例えば島の北東部、クアロア牧場は戦時中、軍に接収され、牧場内の幹線道路近くに今も残るクーパー砲台 ( Battery Cooper ) も、真珠湾攻撃後に造られた砲台です。

(クアロア牧場 クーパー砲台の壕の入口  写真提供:クアロア牧場)

  • 浅沼 正和
    Masakazu Asanuma
    担当講師

    【インタビュー動画あり】
    ハワイ在住通算27年目を迎える。2001年からビショップ博物館で日本語ドーセントのボランティアを始め、2003年に同博物館の会員組織を代表する Bishop Museum Association Council のメンバーに選出され、21年間務めた。他に、ハワイ日米協会理事やハワイ日本文化センターのBoard of Governor 等を務め、日布間の文化交流活動に従事している。海外の訪問国と地域の数は95箇所に及ぶ。

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