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2015.11.28

ゲリット ジャッド

ゲリット ジャッド

  • カメハメハ三世の時代、捕鯨と商船の越冬と中継基地として栄えたホノルル。それは一方で町の荒廃とハワイ文化の衰退にもつながっていきます。ハワイ王国は、西欧列強に翻弄される時代になっていました。その中にあってハワイのために力を尽くした西欧人の一人がゲリット ジャッドでした。

カメハメハ三世の下で、長年ハワイ王国の国政を任された米国生まれの医師「ジャッド」

マサチューセッツからハワイへの初の宣教師来島は、カメハメハ大王他界の翌年、1820年春のことでした。
 

宣教師の一行と云っても、聖職者ばかりの一団ではありません。第三次の宣教師団の一員として1828年春にカメハメハ三世の治めるハワイ王国、ホノルルに到着したゲリット ジャッド (Dr. Gerrit Parmele Judd) も聖職者ではなく、医師でした。サセックスからアメリカに移り住んだ英国人の子孫にあたります。1803年、ニューヨーク州北部のParisに生まれたジャッドは、カルヴァン派の教会に通い、海外伝道に大志を抱き、24歳でハワイに渡り、伝道と医療、教育、そして王国の政治に携わりました。

ゲリット ジャッド夫妻(ジャッド家の写真集より)

三世の時代、ハワイ王国は英仏の太平洋進出の圧力に悩まされる事態に陥ります。フランスや英国の戦艦がホノルルに現れ、王国の主権を脅かしたのです。
 

当時、第二次宣教師団の一員として1823年に来島していたウイリアム リチャーズ牧師が、三世の下で助言者、通訳として働いていましたが、ハワイ王国承認の条約交渉のため1842年春に、王はリチャーズを英仏米に派遣することにし、その後任に指名されたのがジャッドでした。その後ジャッドは、三世の下で1853年まで外務、内務、大蔵の長として要職を歴任することになります。
 

1849年秋、ジャッドは、後にカメハメハ四世と五世として王となる、大王の孫二人を引率して英仏米への外交交渉の旅に出ます。英仏での交渉は難航、特にフランスではハワイ王国に利する結果を得られずに帰国の途につきました。そして、欧州からの帰路、米国に戻った1850年6月、ワシントンDCでボルチモア行の列車に乗り込む際に事件が発生。ジャッドが荷物を預けている間に、王子二人が肌の色から誤解を受け、車掌から列車を降りるように求められたのです。この経験は、後に四世と五世の外交政策に大きな影響を及ぼし、米合衆国とは一線を画す王国の外交政策として現れました。
 

ジャッド自身も、ハワイへの帰国後ある懸念を持ち始めます。それは、ハワイ王国は英仏には頼れない、そしてハワイの小国としての自立は難しく、結果として米国に併合される運命にあるのでは、との憂慮でした。
 

三世は晩年、米国による併合もやむを得ずとの考えるに至ります。しかし1854年12月の没後にカメハメハ四世として王になるアレキサンダー リホリホは、この考えに真っ向から反対し、一度は浮上したアメリカ合衆国によるハワイ併合は、この時点では成り立ちませんでした。


ジャッドは、その後種々の政治的な壁にぶつかり、1853年に行政から離れていきました。

渡航中の(左から)ゲリット ジャッドと、アレキサンダー リホリホ王子(後のカメハメハ四世)、ロット王子(同五世) (ジャッド家の写真集より)

オアフ島コオラウ山脈の北東部に、「クアロア牧場」が在ります。高い山から大きく広がる谷、そして海岸まで広がる、ネイティヴ ハワイアンの共同生活区域「アフプアア」のひとつです。実はここもゲリット ジャッドの所有地でした。
 

1848年に、カメハメハ三世は「グレート マヘレ」と呼ばれる土地の分配を行います。それまで、ハワイアンの人々には土地「私有」の観念が無かったと云えます。この時に三世が王領として留保したクアロアの土地を、後にジャッドが購入し、三世の没後、お后のカラマから近隣のアフプアアを買い足して、今の広大な土地になりました。当初は砂糖農園として使われましたが、現在は牧場として、またハワイの歴史を学びながら牧場の体験が出来る観光地として発展をしています。牧場経営会社の今の社長ジョン モーガン氏はゲリット ジャッドの六代目にあたります。

クアロア牧場

さて、宣教師にとって、キリスト教の伝道のみでなく、教育、そして西欧的文明の利点を説くために、現地語を学習することは必要不可欠でした。1827年秋に三次隊が発つ前には既にハワイ伝道から米国に帰国していた者も居り、ハワイ語の語彙は出発前にボストンにも伝わっていました。ジャッド夫妻も渡航中の船の中でハワイ語を学び、ホノルル到着の翌日には現地の人との会話を楽しんだとのエピソードも伝えられています。ジャッドはハワイ語による聖書作成にも携わり、又1840年にカメハメハ三世が署名した王国憲法策定にも加わりました。この憲法もハワイ語で書かれています。
 

 十九世紀半ばのハワイ王国の運営に貢献したゲリット ジャッドは、1873年7月にホノルルで亡くなりました。王子二人に同行して英仏米に旅した帰途、ニューヨークから北に足を延ばして家族と再会していますが、それ以外はホノルルに居を構え、ハワイ王国のために活躍した西欧人の一人となりました。


ジャッド家代々のお墓は、ホノルルのダウンタウンの山側、オアフ墓地に在ります。

オアフ墓地のジャッド家の墓。真ん中の白いオベリスクがゲリット ジャッドの墓。

 

補足事項

ジャッドは医者として、外来の病気が原因でのネイティヴハワイアンの極端な人口減少を憂いた人でもあり、また教育面での活躍も顕著で、現在のプナホウ校の設立にも積極的に関与した人の一人でした。

  • 浅沼 正和
    Masakazu Asanuma
    担当講師

    【インタビュー動画あり】
    ハワイ在住通算27年目を迎える。2001年からビショップ博物館で日本語ドーセントのボランティアを始め、2003年に同博物館の会員組織を代表する Bishop Museum Association Council のメンバーに選出され、21年間務めた。他に、ハワイ日米協会理事やハワイ日本文化センターのBoard of Governor 等を務め、日布間の文化交流活動に従事している。海外の訪問国と地域の数は95箇所に及ぶ。

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