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カメハメハ三世
リホリホの弟の名は、カウイケアオウリ。
- 三世が統治した30年間、ハワイ王国は列強の影響をもろに受け、国の存在すら危うくなる場面も度々生じました。
カタカナで書くと覚え難い「カウイケアオウリ」はカメハメハ三世の名です。兄の二世同様とても長いハワイアンの名を持っており、これはその一部にすぎません。三世は兄の二十代での死を受けて十歳の頃若くして王になり最長の三十年間ほど在位していました。
三世がハワイ王国を統治していた王国中期には、大王の時代から中国に輸出されていた白檀の木は既に枯渇して、王国の経済を支えていたのは捕鯨でした。まだ石油が発見されていないこの時代、マサチューセッツ南部のナンタケット島やニュー ベッドフォードのあたりから多くの捕鯨船が太平洋に展開し、北太平洋ではアリューシャン列島から日本、琉球、小笠原、グアム周辺で鯨を捕り、米合衆国に鯨油を供給していました。ハワイはその販売の中継と補給基地としての役割を果たしており、捕鯨船が最も多くホノルルやラハイナに入港したのは1850年のことでした。メルヴィルの「モビー ディック」=「白鯨」が発表されたのが1851年ですので、この小説を読むとこの頃の捕鯨の実情が良く解ります。
カメハメハ三世(写真提供:ビショップ博物館)
しかし国としては問題山積の時代でもありました。先ずはハワイアンの人口減少の問題が挙げられます。西欧人の来島とともにもたらされた病気の影響に加え、米西海岸はゴールドラッシュに沸き、人々のカリフォルニアへの移住が人口減に拍車を掛けました。そしてもう一つ、捕鯨船に乗り込み帰還しないハワイアンの男性が増えたのです。ネイティブハワイアンの人々は、ハワイ近海にも現れた鯨を海の神「カナロア」の化身として崇め捕獲することはしませんでした。彼等の鯨に関する物語やチャント(詠唱)には鯨の重要性と敬意が語られています。しかし押し寄せる西欧化の時代の中で、ハワイアンの男性は船乗りとしての技術を買われ、捕鯨船の船員として採用されるようになります。そして飛び跳ねる鯨によって荒波の中に投げ出され、帰らぬ人となることも多々ありました。三世は、乗員は必ずハワイに返す旨の覚書を、捕鯨船の船長と交わすようにとの通達を出すまでに至ります。
当時の捕鯨船の模型(ビショップ博物館の展示物より)
当時の捕鯨を描いた図(ビショップ博物館の展示物より)
他国からの侵略に翻弄され、自国を失いかねない別の問題も起きています。英仏の軍艦の艦長から領土受け渡しや不平等条約を突きつけられた例も出てきたのです。1840年に三世は王国の憲法を発布します。ハワイアンの人々にも選挙権が認められ、西欧的な国家の型が出来ていきますが、憲法を創った背景には、国の法的根拠をはっきりさせて他国からの侵略に対応すべきだ、との宣教師の助言もあったと伝えられています。
1854年には米合衆国によるハワイ併合の動きが再燃し、三世は英仏の領土になることを避けるためには米国に併合された方が良いとまで考えていたようです。しかし結論を待たずして同年12月に三世は死去。後にカメハメハ四世として王となるアレキサンダー リホリホは併合を受け入れる必要は無いと考え、三世の死後数週間で併合交渉は打ち切られ、米国側も併合案を批准せずに終わり、ハワイは大王の孫の時代へと引き継がれていきます。
アドミラル トーマス(ビショップ博物館の展示物より)
西欧化の波の中で土地の分配(グレート マヘレ)も遂行した三世のハワイアンとしての土地に対する考え方はどこに在ったのでしょうか。1843年に英国の太平洋司令官トーマスがハワイ王国の継続を承認した際、カワイアハオ教会での三世の演説に使われた言葉 “Ua mau ke ea o ka ’āina i ka pono” = The life of the land is perpetuated in righteousness は今もハワイ州のモットーとして使われ続けています。
19世紀中頃、カメハメハ3世の治めるハワイ王国の経済は捕鯨の補給中継基地として保たれていましたが、その一方で徐々に砂糖産業も増加していき、後のハワイを支える一大産業に発展していきます。
その始まりは1835年。米国東部のニューイングランドからの来島者がカウアイ島コロアに土地を借り受けて始めた砂糖農園でした。
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浅沼 正和Masakazu Asanuma担当講師
【インタビュー動画あり】
ハワイ在住通算27年目を迎える。2001年からビショップ博物館で日本語ドーセントのボランティアを始め、2003年に同博物館の会員組織を代表する Bishop Museum Association Council のメンバーに選出され、21年間務めた。他に、ハワイ日米協会理事やハワイ日本文化センターのBoard of Governor 等を務め、日布間の文化交流活動に従事している。海外の訪問国と地域の数は95箇所に及ぶ。