講座詳細
コロア
ハワイでの砂糖産業の始まりを知るには、こちらへ。
- ハワイでの砂糖産業の急激な発展には、カメハメハ三世によるグレートマヘレが一つの切っ掛けになりましたが、ゴールドラッシュに湧く米西海岸の人口増加、その後の南北戦争など、米合衆国内の事情がその背景に隠されています。そして、砂糖産業での労働力不足が生じなかったら、ハワイへの日系移民の歴史は変わっていたでしょう。
カウアイ島にコロア ( Kōloa ) と云う名の小さな町があります。
ハワイ八島の北西部に位置し、八島内では生成年代の一番古い島、カウアイ。そのリフエ空港から、ホテルやコンドミニアムが建ち並ぶ島の南部のリゾート「ポイプ」に行く途中に、チェックインを急ぐ旅行者は何気なく通り過ぎてしまいそうな、古い町並みが在ります。コロアの町です。
コロアの町
コロアの町
ところが、この町はハワイ王国の歴史を知る上でも重要な場所の一つで、1835年に、米国東部のニューイングランドからの来島者がカメハメハ三世から土地を借り受け、ハワイで初の砂糖農園を始めた土地でした。
コロアで砂糖プランテーションを始めた Ladd & Company によると、1835年に980エーカー(約400ヘクタール)の土地を、年300ドルで50年間リースし、砂糖キビの植え付けを始めたのだそうです。
元々ハワイには、ポリネシア人がカヌーに載せて持ち込んだ砂糖キビ(コー)が植えられていましたが、自分達の食用に使うだけのものでした。
1848年にはカメハメハ三世が、「グレート マヘレ」と呼ばれる土地の分配を行い、ハワイ全体の約三分の一の土地を王領とし、他を一般人にも分配し、 外国人の土地所有も同時に認められました。ゴールドラッシュに湧く米西海岸への輸出が拡大したことや、その後の南北戦争により米国南部からの砂糖供給が途絶えたことなどが要因となり、米国への砂糖輸出は増大し、土地所有を認められた西欧人による砂糖農園の規模は各島で拡大の一途を辿りました。砂糖産業は、石油が発見されて捕鯨の時代が終わった十九世紀後半から、ハワイの経済を支える重要な産業になり、一方で、農園での労働力の必要性から、多くの移民を受け入れる時代へと移っていきました。
コロアには、今でも砂糖プランテーションの面影が幾つも残っています。砂糖を精製していた工場の煙突が残されており、その前に置かれた像には、ネイティヴハワイアンや他国から移民してきた砂糖農園労働者が描かれています。
精糖工場跡地
精糖工場跡地
街中にはコロアの歴史を紹介する小さな展示場(ヒストリー センター)が在り、当時の砂糖農園や移民の様子が窺えます。ここに展示してある写真から、1885年に始まった官約移民制度で来島した日本人が、この地域の砂糖農園にも従事していたことが分かります。
この1902年頃に撮られたと思われる写真の下に、「ホー ハナ」と書いてありますが”ho“は英語の “hoe” つまり鎌で開墾すること、そして “hana” はハワイ語で仕事を意味し、当時の入植者は耳から入った英語とハワイ語の音をそのまま使って、土地を耕す作業を、こう呼んでいました。
ヒストリーセンター
ヒストリーセンター
因みに、日本からの入植者が使っていた言葉に、「ハナヴァイ」「カチケン」「ハッパイコー」と云う云い方がありました。”hana” は前述のハワイ語の仕事、 “wai” はハワイ語の水で、ハナヴァイは砂糖キビに水をやる仕事。カチケンは英語の“cut cane “が日本人にはこう聞こえたのでしょう。キビを刈り取る作業を意味します。そしてハッパイはハワイ語の「ハーパイ」で、腹に抱えて物を運ぶこと。コーは砂糖キビのことですので、刈り取ったキビを抱えて運ぶ仕事を、こう呼んでいたのでした。英語、ましてやハワイ語も全く解らないまま異国の地に出稼ぎに来た、当時の日本人のご苦労が偲ばれる言葉使いです。
そんな日系移民の人々にとって心の安らぎになったものに、お寺や神社の開教師の助けがありました。コロアの町の中心部には今でも浄土宗の寺院が在ります。1910年に建てられたお寺で、祈りの場であるのみならず、日本語教育、武道研鑽など、日系移民の交流の場でもありました。
コロア浄土ミッション
カウアイ島へ行く機会がありましたら、緑の美しい湿潤な山々の景色やビーチリゾートを楽しみながら、十九世紀半ばから二十世紀まで続いた、砂糖産業と日系移民の歴史を今に残すコロアの町にも立寄ってみて下さい。
コロア・ヒストリカル・センター
所在地:リフエ空港から南西へ約15分
ノースショアからは南へ約1時間15分
見学時間:9時~21時
入場料:無料
ホームページ:http://www.oldkoloa.com/History.aspx(英語のみ)
関連コンテンツ
⇒カウアイ島の道の名
-
浅沼 正和Masakazu Asanuma担当講師
【インタビュー動画あり】
ハワイ在住通算27年目を迎える。2001年からビショップ博物館で日本語ドーセントのボランティアを始め、2003年に同博物館の会員組織を代表する Bishop Museum Association Council のメンバーに選出され、21年間務めた。他に、ハワイ日米協会理事やハワイ日本文化センターのBoard of Governor 等を務め、日布間の文化交流活動に従事している。海外の訪問国と地域の数は95箇所に及ぶ。