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2020.08.25

ハワイ語新聞

ハワイ語の新聞がどのように出来、そしてハワイ文化の中でどのような役割を果たしているかについてお話ししたいと思います。

 

ハワイ語アルファベット」のコンテンツでも少しお話ししましたが、ハワイの歴史の流れの中でどのように文字が導入され、そして識字率が高まっていったかについて簡単に触れていきたいと思います。

 

ハワイアンの識字に関する歴史的背景

1778年キャプテンクックがハワイにやってきた時、ハワイアンにとっては全てが興味深いものでした。船の中全てのもの、やってきた人々、そしてその人たちが白い紙切れに何か書かれたものをやりとりしているような事、全てが知りたかったのです。

しかしながら1793年から1810年の間にカメハメハ1世がキング  ジョージ3世に当てた手紙に書かれたサインからも一定の筆記システムがまだ整っていないことがわかります。またカメハメハ1世は息子と甥のために学校を作りたいという希望を持っていましたが叶うことはありませんでした。

彼の没後1820年代宣教師達が布教のためニューイングランドからハワイへやってきた事により、それまで口頭言語であったハワイ語に文字が導入されます。

Pī ʻā pā(ピーアーパー)と呼ばれるハワイ語の文字表記システムはとてもシンプルで音にぴったりとはまったものだったので、18時間もあればマスターすることができたと言います。その為、ハワイでの識字率はあっという間に高まりました。因みに1820年に識字率が0%だったものが1860年代になると95%以上にもなっていたという事。

1824年、兄リホリホが亡くなり若干11歳という若さで王位に就いたカメハメハ3世カウイケアオウリはこのような言葉を残しています;

   He aupuni palapala koʻu,        ヘ アウプニ パラパラ コッウ

   o ke kanaka pono ʻoia koʻu kanaka   オ ケ カナカ ポノ オイア コッウ カナカ

「教養高い王国は私のもの、正しき民は私の民」

彼が国民の教養を高める事に熱意を持っていたことが伺えます。


ハワイ語新聞第一号

1830年代半ばになると印刷機が導入されるようになり、1834年に最初のハワイ語新聞、KA LAMA HAWAII (ラマ ハワイ)が発行され1948年までの114年余り続きました。

当時は宣教師達がハワイアンの識字を高めるために、またその他のアカデミックな学問の導入として新聞というものを教育ツールとして使う目的と、もちろんキリスト教の伝道のためという目的を持っていました。
 


1820年マサチューセッツからやって来た宣教師団の中に、若干19歳のElisha Loomisというニューヨーカーがいました。彼はハワイのミッションに来る以前に印刷の見習いをしていたことがあり、初期の印刷は彼が指導したそうです。そしてニューイングランドから来た印刷機はマウイ島のラハイナスクールに置かれ、Rev. Lorrin Andrewsの生徒達によって200部の新聞が印刷されたのでした。

 

この間100以上の新聞が発刊され、およそ125,000ページがハワイ語で発行されました。これは活字にして百万ページにあたります。

当初の新聞の内容は使節団や政府関係の内容が多かったようですが、ハワイアンは独自の必要性から読み書きを短期間でマスターしていきました。

ではハワイアンの独自の必要性とはどんなものだったのでしょう?

 

残したい大切な話

キャプテンクックのハワイ来島に始まり、ニューイングランドからの宣教師達の来島により伝染病が蔓延していたハワイでは、最初の新聞が発刊された頃までにハワイの人口の50%にも及ぶ激減状態にありました。過去から体得した知識が絶滅の危機に直面するわけです。

1834年5月のKA LAMA HAWAIIにはチーフ達が国民に向け先祖達からの知識を書き残すよう奨励「….死んでしまったら、伝統ある知識は全てなくなってしまう。それを避けるためにも書き残そう。ー古きものを大切に思うチーフの証として」と投稿されています。

また1842年には歴史家であり系図学者の S. M. Kamakau (カマカウ)は彼の文章をこう締めくくっています。「….この世代、そしてこれからの世代にとって明らかなことです。これからずっと続く未来の世代のために偉大なる価値をもたらすために、正確なものを探す努力をしよう」

このような背景を持って最初の新聞が発行されて約30年後の1861年には KA HOKU O KA PAKIPIKA (カ ホークー オ カ パキピカ)と KA NUPEPA KUOKOA (カ ヌーペパ クーオコッア)というハワイアン独自の新聞が発刊されました。ネイティブハワイアンにより所有され、編集され、運営された新聞のスタートです。KA HOKU O KA PAKIPIKAの編集はカラーカウア王が携わっていたほどです。

これらの新聞の内容は多岐にわたり、オリ、物語、系図、日常の出来事、ネイティブの声などが綴られていました。

このようにハワイアン達は新聞という媒体を通して、それぞれが先祖から語り継がれて守られて来た伝統的な知識を新聞に書き残すことで守り続けようとしたのです。


アメリカよりも早くカラー印刷

世界で最初にカラー印刷が使われたのは1855年ロンドンニュースのイラストのページでした。米国では1891年に最初のカラー印刷が使われたようですが、それよりも約30年近く前にハワイではカラー印刷が導入されていました。

1862年元旦、週刊で発行されていた新聞 KA NUPEPA KUOKOAにKa Hae Hawaiʻi (カ ハエ ハワイ)というタイトルでハワイ国旗のカラーイメージが一面に印刷されました。

ホノルルのマーチャントストリートにある通称「プリンターズ通り」にあった印刷所では、それぞれの色は手作業で行われ、まずは赤のブロック、そして青、次に黒という3段階の印刷作業で刷られたのです。その日の朝に刷られた3000部の新聞、つまり3000回同じ手作業を繰り返して出来上がったということですね。

 

ハワイの叡智の橋渡し

1834年から1948年の間100以上の新聞を通して、125,000ページ、活字にしたらのべ百万ページにも登る大切な情報がハワイ語新聞の中に眠っているわけで、その情報量は莫大なものです。しかしそのうち現代の活字として残されているのはたった2%に過ぎないのだそうで、残りの98%の知識や情報は触れられることなく、使われることがないままでした。

現在では約76,000ページ (3/5)余りがデジタル化されており、検索しやすいようにタイプされています。また既存の翻訳された物も、オリジナルにリンクできるようになっています。

 

Awaiaulu(アヴァイアウル)というオーガニゼーションが行なったプロジェクトʻIke Kūʻokoʻa(イケ クーオコッア)「知識の解放」では2011年11月28日から2012年7月31日までの期間に、12カ国7,500人のボランティアが登録、そして2,500人のボランティアによって新聞のフルページ15,000ページ分をテキストファイルに完成しました。これはレターサイズのページの150,000ページに相当する量です。ボランティはハワイ語のスキルを必要とせず、マニュアルに従って作業できるシステムになっていました。

このプロジェクトは実際の作業のみならず、このプロジェクトを通して広く人々にハワイ語の「倉庫」があることを知ってもらい、その重要性を知ってもらうことも目的としていました。

 

Awaiauluの他にもハワイ大学、カメハメハスクール、 OHA、 Alu Likeなど様々なオーガニゼーションがデータベースを作り誰でも閲覧できるような環境が整えられています。

これらのハワイ語新聞のデータは「原材料」ではありますが、様々な分野の知識がまだまだたくさん眠っています。

たとえば天候に関していえば、当時のお天気をリサーチすることでハリケーンのパターンを読み取ることができたり、またフラに関することであればオリやメレが沢山書き残されています。今まで一部分しか書物化されていなかった物語の全容が見えたりと、まだまだ隠された叡智が詰まっているのです。

若干200年近い月日を経て、当時のハワイアンの先人達が後世の私たちにどんなものを語り知らせたかったのだろう、どんな思いでそれぞれの記事を新聞に投稿したのだろうと考えると過去からの叡智の有り難さ、そしてそれが現在まで残され、私たちの手の届くところに導いてくれたハワイ語のスペシャリスト達の功績に深い感謝でいっぱいになるのです。

  • ミイラニ・ヨシコ・クーパー
    Mi'ilani Yoshiko Cooper
    担当講師

    Kahaluʻu在住
    Halau Kīhene Pua Uluwehi (ハラウ キーヘネプアウルヴェヒ オアフ島/神奈川)主宰、クムフラ
    Lamakū Hawaiian Study Education (ラマクーハワイアンスタディーエジュケーション)主宰
    アロハフロウファウンダー
    プランツメディスンメイカー
     

    ハワイ大学ヒロ校ハワイ学科卒業 ハワイアンイマージョンスクールNāwahīokalaniōpuʻu(ナーヴァヒーオカラニオープウ)で教鞭を執る
    ハワイ大学マノア校言語学修士
    2006年正統な伝統儀式のもとクムフラの称号を与えられる
    フラヘブン(雑誌)に2年半連載ページを執筆
    個人、企業向けの様々なハワイ文化講座を指導
    現在ビショップ博物館Lā Kūleʻaプログラムのフラクラスを担当
    アンティ マイキのフラを継承するクムフラ、メイ カママル クラインの元、指導者としてフラを学び2006年8月にウニキを経てクムフラの称号を与えられる
    ジョニー ラム ホー、レイ フォンセカの元よりメリーモナーク フラ フェスティバルに出場経験多数
    カジメロブラザースやハパなど有名ミュージシャンのコンサートの出演経験多数
    また、ダンサーとしての体作りの必要性からヨガを始め、ハワイの文化とヨガを融合させた Alohaflowを独自で考案
    ハワイの価値観をもとにHoʻoponopono的なライフスタイリングや自然と調和できるサステイナブルなライフスタイルを目指している

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