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2020.11.06
歴代のハワイ準州知事―初代から6代目まで―
ここがポイント
ハワイが準州となって以降の知事、初代から6代目までの、生い立ちや成し遂げた事、社会的背景などをまとめて学びます。
王国としてのハワイが終焉を迎えた後、アメリカ併合を目的とした共和国の時期を経て、ハワイはアメリカの準州の一つとして新たな出発を迎えます。ハワイが準州であった時代を支えた知事は12名。ハワイが州となってからは8名(2020年現在。準州最後と州になって最初の知事は重複しています)。今回は、準州時代前半となる1900年から1929年に知事であった6名について、知事の生い立ち、成し遂げた事、知事となった時代の様子などを、まとめて見てみましょう。
ハワイが準州(Territory)となってからの社会の変化
・アメリカの憲法がハワイに適用されるようになった。
・ハワイ共和国民は、アメリカ国民となった。しかし、ハワイに住むアジア人にはアメリカ市民権は与えられなかった。
・ハワイに住む全ての成人男性に選挙権が与えられた。(1920年には女性にも選挙権が与えられた。)
・知事と裁判官は、ハワイ住民の中から、アメリカ大統領による任命制となった。
・連邦議会議員1名(ワシントンD.C.のアメリカ議会の中で、ハワイ代表者*となる)、ハワイ準州上院議員15名、下院議員30名が、男性のハワイ住民の中から選挙で選ばれた。
*州であれば、議会に代表者を2名送ることができたが、準州であるハワイは1名のみ。そのため、国にとって大事な議論に取り残されることもあった。
ハワイ準州初代知事
サンフォード・バラード・ドール (Sanford Ballard Dole)
1900年~1903年
支持政党:共和党
前職、就いた主な職業:弁護士、裁判官、カウアイ王国議会議員、ハワイ共和国大統領、ハワイ王国最高裁判所裁判官
任命したアメリカ大統領:マッキンリー大統領
1844年4月23日 ホノルル生まれ、1926年6月9日逝去
メイン州からハワイへ移住した宣教師の両親の元に生まれますが、母親が出産4日後に亡くなり、ドール氏はハワイアンの乳母たちの手で育てられました。父親が校長を務めていたオアフ・カレッジ(現Punahou School)で1年間学び、マサチューセッツ州のウィリアムカレッジにて、父親の影響で牧師としての教育を受けるものの、方向を変えて法律を学び始め、ニューヨーク州サフォーク郡の司法試験に合格の後、1868年にハワイに戻り、弁護士としての一歩を踏み出しました。
ドール氏は準州知事としての活躍以前に、ハワイ王国の終焉、ハワイのアメリカ併合という、社会を大きく転換させた中心人物として、強いリーダーシップを発揮しました。
1903年、当時のセオドア・ルーズベルト大統領によって米連邦裁判所判事に任命されたため準州知事の職を辞し、1916年まで判事として勤めました。
ハワイの土地のアメリカ軍による使用の始まり
1898年にアメリカとスペインの間で勃発した米西戦争の影響で、ハワイに戦艦の係留地を設けることの重要性が説かれ、連邦議会はパールハーバーの掘削および整備に多額の予算を認めました。アメリカ陸軍も1898年に最初の駐屯地となるFort McKinleyを、ワイキキのダイヤモンドヘッドの裾野に広がるカピオラニパークに設置しました。
移民労働者によるストライキが可能に
ハワイを準州と規定したThe Organic Actでは、それまで行われていた、仲介業者が移民を募ってハワイに労働者を送るという形の契約労働が禁止されたため、1900年6月14日をもって全ての移民労働者の従来の契約が終了となりました。それが、労働者が自らの状況を改善するために声をあげることを可能にしたため、日本人労働者グループにより、賃金の増加や、祝日労働の取りやめなどを求めてストライキが多発。1900年には20件のストライキが発生しました。しかしながら、要求が通り、成功したと言えるのは4件、部分的な成功は3件のみという結果でした。
ドール準州知事については、こちらもご覧ください。
ハワイ準州第二代目知事
ジョージ・ロバート・カーター(George Robert Carter)
1903年~1907年
支持政党:共和党
前職、就いた主な職業: Bank of Hawaii、C. Brewer & Company(「ビッグ・ファイブ*」の一社)およびAlexander & Baldwin(ビッグ・ファイブの一社)の取締役、Hawaiian Trust Company、Hawaiian Fertilizer Companyのマネージャー、準州上院議員、ハワイ準州長官(Secretary of Hawaii)
任命したアメリカ大統領:セオドア・ルーズベルト大統領
1886年12月28日ホノルル生まれ、1933年2月11日逝去
*サトウキビ産業で強大な力を持った「ビッグ・ファイブ」
Alexander & Baldwin, Ltd.
C. Brewer & Company, Ltd.
Castle & Cooke, Ltd.
Theo H. Davies & Company, Ltd.
American Factors, Ltd. (旧H. Hackfeld & Company, Ltd)
母方の祖父は、カメハメハ3世のアドバイザーとして活躍したGerrit P. Judd、伯父のジョセフ・O・カーターは砂糖産業のビッグファイブの一つ、C. Brewer & Co., Ltd.の社長であり、リリウオカラニ女王のアドバイザーも務めた人物で、ハワイの歴史に深く関わる人々の血を引いています。
1901年、準州上院議員に選出された後、当時のセオドア・ルーズベルト大統領とハワイ準州について非公式な話し合いの場を設ける為にワシントンD.C.に出向き、ルーズベルト大統領と近しい仲となります。1902年には、ルーズベルト大統領によりハワイ準州長官に任命され、翌1903年に同大統領により、ハワイ準州知事に任命され1907年まで務めました。ビジネスマンとしての経験を活かし、経済的な問題に取り組んでいきました。
歴史に対する造詣が深く、歴史的資料を管理し、ハワイの歴史の研究や講義を行うハワイアン・ヒストリカル・ソサエティーの会長を務め、自ら収集した歴史に関する多くの書物を、図書館に寄贈するなどしていました。
5つの郡の誕生
カーター準州知事の在任中の1905年に、ハワイの島々が5つの郡**に分けられ、カラワオ郡を除く4郡に郡政府が設けられました。(カラワオ郡は人口が少ないため、現在はハワイ州保険局の管轄下となっています。)郡が設けられる前の中央集権的な政治システムに比べ、市民の声がより政治に反映しやすくなることで、人々には好意的に受け入れられました。
**オアフ郡(オアフ島 1919年にホノルル市郡に名称変更。カウアイ・ニイハウ島以北のミッドウェー諸島を除く島々を含む)
ハワイ郡(ハワイ島)
マウイ郡(マウイ島、ラナイ島、カホオラヴェ島、カラワオを除くモロカイ島)
カウアイ郡(カウアイ島、ニイハウ島)
カラワオ郡(モロカイ島カラウパパ半島)
ハワイ準州第三代目知事
ウォルター・フランシス・フリア(Walter Francis Frear)
1907年~1913年
支持政党:共和党
前職、就いた主な職業: 巡回裁判所の裁判官(ハワイ王国時代、カラカウア王およびリリウオカラニ女王により任命)、暫定政府および共和国最高裁判事、ハワイ準州最高裁裁判長
任命したアメリカ大統領:セオドア・ルーズベルト大統領
1863年10月29日カリフォルニア州生まれ、1948年1月22日逝去
1870年、7歳でカリフォルニアからハワイに家族と共に移住し、オアフ・カレッジにて学んだ後に、コネチカット州のイェール大学、イエール法科大学院で法律について学び、ハワイに戻ってからは、ドール氏同様に、弁護士としてのキャリアをスタートさせました。
王国時代には、カラカウア王に続き、リリウオカラニ女王にも任命され巡回裁判所の裁判官を務め、暫定政府時代、共和国時代には、当時のドール大統領に任命される形で最高裁判事として活躍します。さらに、ハワイのアメリカ併合を認めたマッキンリー大統領により設置された、ハワイを準州にするために法律的な側面を確認する委員会にて力を発揮し、ハワイをアメリカの準州とする基本法の改訂作業に携わりました。また、ハワイにおける法律においても、編集を監督する重要な立場にありました。
1907年に準州知事に指名され、1913年まで務めた後は、自らの弁護士としての仕事を再開しました。
アメリカ主義の浸透
ハワイがアメリカ準州となって以降、フリア準州知事時代を通して、公立学校の数、学年が増えていきました。学校では英語のみが使用され、アメリカの民主主義が教えられ、子供達はアメリカ独立宣言と忠誠の誓いを暗唱できるようになり、「アメリカ主義/アメリカニズム(Americanism)」が社会に浸透していきました。個人事業の立ち上げが推奨され、政治に関与することもアメリカ人としては重要だと教えられていました。
「同じ労働であれば、同じ賃金であるべきだ」
1900年以降、サトウキビ産業は度々ストライキに見舞われてきましたが、1909年5月1日に、それまでで最も大きなストライキが、日本人労働者によって行われました。
プランテーション労働者ではない日本人グループによって、最初の労働組合となるThe Higher Wage Associationが設立され、ポルトガル人が月$22.50の賃金であるところ、日本人は$18という賃金格差を解消することを求め、「同じ労働であれば、同じ賃金であるべきだ」といったスローガンを掲げ、日本人労働者の労働条件の改善につなげました。
フィリピン人移民も1906年以降ハワイで働き始めたことで日本人からの要求は和らぎ、サトウキビ生産量も増加、製糖企業として5つの企業、ビッグ・ファイブがますます力をつけ、1915年までには、ハワイの5人に1人が、このビッグ・ファイブ関連の仕事に就くほどとなりました。
ハワイ準州第四代目知事
ルーシャス・ユージーン・ピンカム(Lucius Eugene Pinkham)
1913年~1918年
支持政党:民主党
前職、就いた主な職業: ハワイ準州衛生局局長、OR&L(Oahu Railway and Land) Company工場設立、Hawaiian Sugar Planters’ Association(HSPA)移民仲介
任命したアメリカ大統領:ウィルソン大統領
1850年9月19日マサチューセッツ州生まれ、1922年11月2日逝去
マサチューセッツ州で生まれ育ちますが、高校生の時に乗馬で足を負傷し、19歳から22歳までの間、歩くことも働くこともできないという時期を過ごしたピンカム氏。そのため、大学に行くことも諦め、アメリカ中西部で穀物、石炭業に携わっていました。
1891年、オアフ島各地を結ぶ鉄道を敷設していたOR&L (Oahu Railway and Land )カンパニーに石炭を供給する工場設立のためハワイに渡り、工場が完成した3年後にカリフォルニアに居を移しますが、再び1898年にハワイに戻り、パシフィック・ハードウェア・カンパニーのマネージャーとなります。
1904年にハワイ準州衛生局局長に任命され、1908年まで務めていた当時のワイキキは湿地帯、あるいは沼地のようになっており、蚊が蔓延している状態でした。そのため、局長在任中に、ワイキキが蚊の温床になっていることは、公衆衛生上問題だとする報告書を作成しましたが、対処されないままとなってしまいました。
局長退任後はカリフォルニアに居住していましたが、当地の議員による推薦で、ウィルソン大統領がピンカム氏をハワイ準州知事に任命、初の民主党からの知事となり、1918年まで務めました。
第一次世界大戦勃発
1914年7月28日に勃発、1918年11月11日に終戦を迎えた第一次世界大戦により、ピンカム準州知事が就任して間もないハワイの社会も、戦争の影響を大きく受けていました。ハワイは戦地からは離れていたものの、人々は戦争に備える動きを活発化させ、国家警備隊(National Guard)への志願者が相次ぎ、警備隊の数はアメリカの州・準州の中で6位につける程の人数となりました。
1917年4月、残念なことに、フランス沖でアメリカ船籍の船がドイツ軍によって撃沈され、乗っていた5人のハワイの兵士が犠牲になりました。この後間もなく、ウィルソン大統領は参戦を表明し、ハワイでは、物資を同盟国に送る、赤十字ボランティアに登録する、イオラニ宮殿の王座の間で医療用ガウンを製作するなど、人々は戦争に対する動きを加速させていきました。
ハワイ準州第五代目知事
チャールズ・ジェイムス・マッカーシー(Charles James McCarthy)
1918年~1921年
支持政党:民主党
前職、就いた主な職業: サンフランシスコ・ホールセール・フルーツカンパニーで輸出事業に従事。酒造、サルーン経営。貴族院の一員。ホノルル・ライフルズのキャプテン。準州上院議員。
任命したアメリカ大統領:ウィルソン大統領
1861年8月4日マサチューセッツ州生まれ、1929年11月26日逝去
マサチューセッツ州に生まれ、家族と共に幼少期にサンフランシスコへと移住したマッカーシー氏は、後にサンフランシスコに向けてハワイの果物を輸出する仕事に従事するために、王国時代のハワイに居を移します。
1890年には貴族院の一員となり、リリウオカラニ女王を支えた人物ですが、同時に、ハワイのアメリカ併合を推し進めたホノルル・ライフルズのキャプテンでもあったという経歴を持っています。
1900年に、リリウオカラニ女王支持者により結成されたハワイ民主党の創設者の一人で、クヒオ王子の兄、デイビッド・カワナナコアも創設者の一人でした。1907年に準州上院議員となり、1918年にウィルソン大統領により準州知事に任命され、第一次世界大戦後の社会を通常の状態に戻すという、大きな仕事を託される形となりました。
第一次世界大戦後の社会
1918年11月11日、第一次大戦が終結し、ハワイでも大々的な勝利パレードが繰り広げられました。戦後のハワイ社会は、アメリカ本土からの物品や、観光客を運ぶ蒸気船の運行再開が遅れ、戦争前の状態にすぐには戻りませんでしたが、サトウキビの生産量は右肩上がりに増え続け、1900年の約29万トンから、1920年には55万トンを超える程になっており、輸出も大変好調でした。1920年に行われた選挙では、女性が初めて投票することが可能となりました。
ワイキキの未来を変えた知事
前代知事のピンカム氏がワイキキの抱えていた問題に気付き、作成した報告書は、マッカーシー準州知事の時代になって、公共事業局(The Department of Public Works)によって再考されることとなり、ついに議会がワイキキ運河掘削の予算を承認、運河の建設が始まることとなりました。マッカーシー知事は1921年に退任後、一時ワシントンD.C.にホノルル商工会議所の代表として滞在していましたが、2年後にハワイに戻り、アラワイ運河の建設の中心的な役割を果たしたハワイアン・ドレッジング・カンパニーにて運河建設に深く携わり、1924年の完成を見届けました。運河の完成によって、蚊の温床だったワイキキから水が引き、土地の改良が行われた後に、より洗練された観光地へと大きく変貌を遂げることになります。
アラワイ運河について詳しくは、こちらをご覧ください。
ハワイ準州第六代目知事
ウォレス・ライダー・ファーリントン(Charles James McCarthy)
1921年~1929年
支持政党:共和党
前職、就いた主な職業:新聞記事編集者、新聞社社長、ハワイ大学理事長
任命したアメリカ大統領:ハーディング大統領、クーリッジ大統領
1871年5月3日メイン州生まれ、1933年10月6日逝去
メイン州で生まれ育ち、メイン州立大学で学んだ後にニューヨークに居を移しました。そこで、ビッグファイブの一つ、Castle & Cooke, Ltd.の創設者の息子、ヘンリー・キャッスルに出会い、ハワイのアメリカ併合支持者向けの新聞、パシフィック・コマーシャル・アドバタイザーの編集者として雇われ、1894年、23歳でハワイに渡りました。
その後、新聞社のホノルル・イブニング・ブルテン社で共同経営者に、その後、ハワイアン・スター社との合併で社長となりました。教育に対して熱心に取り組み、ハワイ大学の前身であるカレッジ・オブ・ハワイの設立に向けて議会に働きかけ、1907年に設立が実現しています。1914年から1920年は、同大学の理事長に任命され勤めました。
1921年にハーディング大統領により準州知事に任命されることになりますが、ファーリントン氏は自ら主宰したクラブのゲストスピーカーとして、当時まだオハイオ州の上院議員だったハーディング大統領を呼んでいたという縁がありました。クヒオ王子自身も知事の座に就くことを強く望んでいましたが、前知事たちもファーリントン氏の知事任命を支持し、第六代準州知事に任命されました。1925年にもクーリッジ大統領により再度知事として任命されています。
パイナップル産業の発展
1800年代後半から、サトウキビ産業がハワイの経済の要であった中、1901年からパイナップルの生産を始めた人物がいました。それが、後に「パイナップル・キング」の呼び名を手にするジェームズ・D・ドール、ドール知事のいとこにあたる人物です。ハワイアン・パイナップル・カンパニーを設立し、オアフ島ワヒアワの土地でパイナップル生産を始めました。このビジネスは徐々に拡大し、ついに1922年にはラナイ島を購入し、大規模生産を始めるにまで至りました。
アジアからの移民が禁止される
サトウキビ、パイナップルと大規模な生産が行われていたハワイでは、その労働力は移民の力に頼っていました。特に日本人移民の数は突出しており、1924年までに218,000人の日本人がハワイに渡りました。契約終了後は、日本に帰国、アメリカ本土への移住、ハワイに定住と様々な道に進みますが、ハワイにおける日本人の人口は116,615人、当時のハワイ全人口の42%を占めるまでになっていました。そのような中で、アメリカは1924年に日本人のアメリカへの移民を禁ずる移民法(ジョンソン―リード法)を施行しました。
初代知事から第6代目の知事について、それぞれ当時の社会の様子を簡単にご紹介しながら見てみました。それぞれの知事の時代を、政治、経済、観光、文化など、それぞれ違った角度で歴史を追うと、さらに当時の社会についての理解が深まります。気になる知事の時代が見つかったら、そこから歴史をさらに深く掘り下げてみてはいかがでしょうか。
ハワイが準州(Territory)となってからの社会の変化
・アメリカの憲法がハワイに適用されるようになった。
・ハワイ共和国民は、アメリカ国民となった。しかし、ハワイに住むアジア人にはアメリカ市民権は与えられなかった。
・ハワイに住む全ての成人男性に選挙権が与えられた。(1920年には女性にも選挙権が与えられた。)
・知事と裁判官は、ハワイ住民の中から、アメリカ大統領による任命制となった。
・連邦議会議員1名(ワシントンD.C.のアメリカ議会の中で、ハワイ代表者*となる)、ハワイ準州上院議員15名、下院議員30名が、男性のハワイ住民の中から選挙で選ばれた。
*州であれば、議会に代表者を2名送ることができたが、準州であるハワイは1名のみ。そのため、国にとって大事な議論に取り残されることもあった。
ハワイ準州初代知事
サンフォード・バラード・ドール (Sanford Ballard Dole)
1900年~1903年
支持政党:共和党
前職、就いた主な職業:弁護士、裁判官、カウアイ王国議会議員、ハワイ共和国大統領、ハワイ王国最高裁判所裁判官
任命したアメリカ大統領:マッキンリー大統領
1844年4月23日 ホノルル生まれ、1926年6月9日逝去
メイン州からハワイへ移住した宣教師の両親の元に生まれますが、母親が出産4日後に亡くなり、ドール氏はハワイアンの乳母たちの手で育てられました。父親が校長を務めていたオアフ・カレッジ(現Punahou School)で1年間学び、マサチューセッツ州のウィリアムカレッジにて、父親の影響で牧師としての教育を受けるものの、方向を変えて法律を学び始め、ニューヨーク州サフォーク郡の司法試験に合格の後、1868年にハワイに戻り、弁護士としての一歩を踏み出しました。
ドール氏は準州知事としての活躍以前に、ハワイ王国の終焉、ハワイのアメリカ併合という、社会を大きく転換させた中心人物として、強いリーダーシップを発揮しました。
1903年、当時のセオドア・ルーズベルト大統領によって米連邦裁判所判事に任命されたため準州知事の職を辞し、1916年まで判事として勤めました。
ハワイの土地のアメリカ軍による使用の始まり
1898年にアメリカとスペインの間で勃発した米西戦争の影響で、ハワイに戦艦の係留地を設けることの重要性が説かれ、連邦議会はパールハーバーの掘削および整備に多額の予算を認めました。アメリカ陸軍も1898年に最初の駐屯地となるFort McKinleyを、ワイキキのダイヤモンドヘッドの裾野に広がるカピオラニパークに設置しました。
移民労働者によるストライキが可能に
ハワイを準州と規定したThe Organic Actでは、それまで行われていた、仲介業者が移民を募ってハワイに労働者を送るという形の契約労働が禁止されたため、1900年6月14日をもって全ての移民労働者の従来の契約が終了となりました。それが、労働者が自らの状況を改善するために声をあげることを可能にしたため、日本人労働者グループにより、賃金の増加や、祝日労働の取りやめなどを求めてストライキが多発。1900年には20件のストライキが発生しました。しかしながら、要求が通り、成功したと言えるのは4件、部分的な成功は3件のみという結果でした。
ドール準州知事については、こちらもご覧ください。
ハワイ準州第二代目知事
ジョージ・ロバート・カーター(George Robert Carter)
1903年~1907年
支持政党:共和党
前職、就いた主な職業: Bank of Hawaii、C. Brewer & Company(「ビッグ・ファイブ*」の一社)およびAlexander & Baldwin(ビッグ・ファイブの一社)の取締役、Hawaiian Trust Company、Hawaiian Fertilizer Companyのマネージャー、準州上院議員、ハワイ準州長官(Secretary of Hawaii)
任命したアメリカ大統領:セオドア・ルーズベルト大統領
1886年12月28日ホノルル生まれ、1933年2月11日逝去
*サトウキビ産業で強大な力を持った「ビッグ・ファイブ」
Alexander & Baldwin, Ltd.
C. Brewer & Company, Ltd.
Castle & Cooke, Ltd.
Theo H. Davies & Company, Ltd.
American Factors, Ltd. (旧H. Hackfeld & Company, Ltd)
母方の祖父は、カメハメハ3世のアドバイザーとして活躍したGerrit P. Judd、伯父のジョセフ・O・カーターは砂糖産業のビッグファイブの一つ、C. Brewer & Co., Ltd.の社長であり、リリウオカラニ女王のアドバイザーも務めた人物で、ハワイの歴史に深く関わる人々の血を引いています。
1901年、準州上院議員に選出された後、当時のセオドア・ルーズベルト大統領とハワイ準州について非公式な話し合いの場を設ける為にワシントンD.C.に出向き、ルーズベルト大統領と近しい仲となります。1902年には、ルーズベルト大統領によりハワイ準州長官に任命され、翌1903年に同大統領により、ハワイ準州知事に任命され1907年まで務めました。ビジネスマンとしての経験を活かし、経済的な問題に取り組んでいきました。
歴史に対する造詣が深く、歴史的資料を管理し、ハワイの歴史の研究や講義を行うハワイアン・ヒストリカル・ソサエティーの会長を務め、自ら収集した歴史に関する多くの書物を、図書館に寄贈するなどしていました。
5つの郡の誕生
カーター準州知事の在任中の1905年に、ハワイの島々が5つの郡**に分けられ、カラワオ郡を除く4郡に郡政府が設けられました。(カラワオ郡は人口が少ないため、現在はハワイ州保険局の管轄下となっています。)郡が設けられる前の中央集権的な政治システムに比べ、市民の声がより政治に反映しやすくなることで、人々には好意的に受け入れられました。
**オアフ郡(オアフ島 1919年にホノルル市郡に名称変更。カウアイ・ニイハウ島以北のミッドウェー諸島を除く島々を含む)
ハワイ郡(ハワイ島)
マウイ郡(マウイ島、ラナイ島、カホオラヴェ島、カラワオを除くモロカイ島)
カウアイ郡(カウアイ島、ニイハウ島)
カラワオ郡(モロカイ島カラウパパ半島)
ハワイ準州第三代目知事
ウォルター・フランシス・フリア(Walter Francis Frear)
1907年~1913年
支持政党:共和党
前職、就いた主な職業: 巡回裁判所の裁判官(ハワイ王国時代、カラカウア王およびリリウオカラニ女王により任命)、暫定政府および共和国最高裁判事、ハワイ準州最高裁裁判長
任命したアメリカ大統領:セオドア・ルーズベルト大統領
1863年10月29日カリフォルニア州生まれ、1948年1月22日逝去
1870年、7歳でカリフォルニアからハワイに家族と共に移住し、オアフ・カレッジにて学んだ後に、コネチカット州のイェール大学、イエール法科大学院で法律について学び、ハワイに戻ってからは、ドール氏同様に、弁護士としてのキャリアをスタートさせました。
王国時代には、カラカウア王に続き、リリウオカラニ女王にも任命され巡回裁判所の裁判官を務め、暫定政府時代、共和国時代には、当時のドール大統領に任命される形で最高裁判事として活躍します。さらに、ハワイのアメリカ併合を認めたマッキンリー大統領により設置された、ハワイを準州にするために法律的な側面を確認する委員会にて力を発揮し、ハワイをアメリカの準州とする基本法の改訂作業に携わりました。また、ハワイにおける法律においても、編集を監督する重要な立場にありました。
1907年に準州知事に指名され、1913年まで務めた後は、自らの弁護士としての仕事を再開しました。
アメリカ主義の浸透
ハワイがアメリカ準州となって以降、フリア準州知事時代を通して、公立学校の数、学年が増えていきました。学校では英語のみが使用され、アメリカの民主主義が教えられ、子供達はアメリカ独立宣言と忠誠の誓いを暗唱できるようになり、「アメリカ主義/アメリカニズム(Americanism)」が社会に浸透していきました。個人事業の立ち上げが推奨され、政治に関与することもアメリカ人としては重要だと教えられていました。
「同じ労働であれば、同じ賃金であるべきだ」
1900年以降、サトウキビ産業は度々ストライキに見舞われてきましたが、1909年5月1日に、それまでで最も大きなストライキが、日本人労働者によって行われました。
プランテーション労働者ではない日本人グループによって、最初の労働組合となるThe Higher Wage Associationが設立され、ポルトガル人が月$22.50の賃金であるところ、日本人は$18という賃金格差を解消することを求め、「同じ労働であれば、同じ賃金であるべきだ」といったスローガンを掲げ、日本人労働者の労働条件の改善につなげました。
フィリピン人移民も1906年以降ハワイで働き始めたことで日本人からの要求は和らぎ、サトウキビ生産量も増加、製糖企業として5つの企業、ビッグ・ファイブがますます力をつけ、1915年までには、ハワイの5人に1人が、このビッグ・ファイブ関連の仕事に就くほどとなりました。
ハワイ準州第四代目知事
ルーシャス・ユージーン・ピンカム(Lucius Eugene Pinkham)
1913年~1918年
支持政党:民主党
前職、就いた主な職業: ハワイ準州衛生局局長、OR&L(Oahu Railway and Land) Company工場設立、Hawaiian Sugar Planters’ Association(HSPA)移民仲介
任命したアメリカ大統領:ウィルソン大統領
1850年9月19日マサチューセッツ州生まれ、1922年11月2日逝去
マサチューセッツ州で生まれ育ちますが、高校生の時に乗馬で足を負傷し、19歳から22歳までの間、歩くことも働くこともできないという時期を過ごしたピンカム氏。そのため、大学に行くことも諦め、アメリカ中西部で穀物、石炭業に携わっていました。
1891年、オアフ島各地を結ぶ鉄道を敷設していたOR&L (Oahu Railway and Land )カンパニーに石炭を供給する工場設立のためハワイに渡り、工場が完成した3年後にカリフォルニアに居を移しますが、再び1898年にハワイに戻り、パシフィック・ハードウェア・カンパニーのマネージャーとなります。
1904年にハワイ準州衛生局局長に任命され、1908年まで務めていた当時のワイキキは湿地帯、あるいは沼地のようになっており、蚊が蔓延している状態でした。そのため、局長在任中に、ワイキキが蚊の温床になっていることは、公衆衛生上問題だとする報告書を作成しましたが、対処されないままとなってしまいました。
局長退任後はカリフォルニアに居住していましたが、当地の議員による推薦で、ウィルソン大統領がピンカム氏をハワイ準州知事に任命、初の民主党からの知事となり、1918年まで務めました。
第一次世界大戦勃発
1914年7月28日に勃発、1918年11月11日に終戦を迎えた第一次世界大戦により、ピンカム準州知事が就任して間もないハワイの社会も、戦争の影響を大きく受けていました。ハワイは戦地からは離れていたものの、人々は戦争に備える動きを活発化させ、国家警備隊(National Guard)への志願者が相次ぎ、警備隊の数はアメリカの州・準州の中で6位につける程の人数となりました。
1917年4月、残念なことに、フランス沖でアメリカ船籍の船がドイツ軍によって撃沈され、乗っていた5人のハワイの兵士が犠牲になりました。この後間もなく、ウィルソン大統領は参戦を表明し、ハワイでは、物資を同盟国に送る、赤十字ボランティアに登録する、イオラニ宮殿の王座の間で医療用ガウンを製作するなど、人々は戦争に対する動きを加速させていきました。
ハワイ準州第五代目知事
チャールズ・ジェイムス・マッカーシー(Charles James McCarthy)
1918年~1921年
支持政党:民主党
前職、就いた主な職業: サンフランシスコ・ホールセール・フルーツカンパニーで輸出事業に従事。酒造、サルーン経営。貴族院の一員。ホノルル・ライフルズのキャプテン。準州上院議員。
任命したアメリカ大統領:ウィルソン大統領
1861年8月4日マサチューセッツ州生まれ、1929年11月26日逝去
マサチューセッツ州に生まれ、家族と共に幼少期にサンフランシスコへと移住したマッカーシー氏は、後にサンフランシスコに向けてハワイの果物を輸出する仕事に従事するために、王国時代のハワイに居を移します。
1890年には貴族院の一員となり、リリウオカラニ女王を支えた人物ですが、同時に、ハワイのアメリカ併合を推し進めたホノルル・ライフルズのキャプテンでもあったという経歴を持っています。
1900年に、リリウオカラニ女王支持者により結成されたハワイ民主党の創設者の一人で、クヒオ王子の兄、デイビッド・カワナナコアも創設者の一人でした。1907年に準州上院議員となり、1918年にウィルソン大統領により準州知事に任命され、第一次世界大戦後の社会を通常の状態に戻すという、大きな仕事を託される形となりました。
第一次世界大戦後の社会
1918年11月11日、第一次大戦が終結し、ハワイでも大々的な勝利パレードが繰り広げられました。戦後のハワイ社会は、アメリカ本土からの物品や、観光客を運ぶ蒸気船の運行再開が遅れ、戦争前の状態にすぐには戻りませんでしたが、サトウキビの生産量は右肩上がりに増え続け、1900年の約29万トンから、1920年には55万トンを超える程になっており、輸出も大変好調でした。1920年に行われた選挙では、女性が初めて投票することが可能となりました。
ワイキキの未来を変えた知事
前代知事のピンカム氏がワイキキの抱えていた問題に気付き、作成した報告書は、マッカーシー準州知事の時代になって、公共事業局(The Department of Public Works)によって再考されることとなり、ついに議会がワイキキ運河掘削の予算を承認、運河の建設が始まることとなりました。マッカーシー知事は1921年に退任後、一時ワシントンD.C.にホノルル商工会議所の代表として滞在していましたが、2年後にハワイに戻り、アラワイ運河の建設の中心的な役割を果たしたハワイアン・ドレッジング・カンパニーにて運河建設に深く携わり、1924年の完成を見届けました。運河の完成によって、蚊の温床だったワイキキから水が引き、土地の改良が行われた後に、より洗練された観光地へと大きく変貌を遂げることになります。
アラワイ運河について詳しくは、こちらをご覧ください。
ハワイ準州第六代目知事
ウォレス・ライダー・ファーリントン(Charles James McCarthy)
1921年~1929年
支持政党:共和党
前職、就いた主な職業:新聞記事編集者、新聞社社長、ハワイ大学理事長
任命したアメリカ大統領:ハーディング大統領、クーリッジ大統領
1871年5月3日メイン州生まれ、1933年10月6日逝去
メイン州で生まれ育ち、メイン州立大学で学んだ後にニューヨークに居を移しました。そこで、ビッグファイブの一つ、Castle & Cooke, Ltd.の創設者の息子、ヘンリー・キャッスルに出会い、ハワイのアメリカ併合支持者向けの新聞、パシフィック・コマーシャル・アドバタイザーの編集者として雇われ、1894年、23歳でハワイに渡りました。
その後、新聞社のホノルル・イブニング・ブルテン社で共同経営者に、その後、ハワイアン・スター社との合併で社長となりました。教育に対して熱心に取り組み、ハワイ大学の前身であるカレッジ・オブ・ハワイの設立に向けて議会に働きかけ、1907年に設立が実現しています。1914年から1920年は、同大学の理事長に任命され勤めました。
1921年にハーディング大統領により準州知事に任命されることになりますが、ファーリントン氏は自ら主宰したクラブのゲストスピーカーとして、当時まだオハイオ州の上院議員だったハーディング大統領を呼んでいたという縁がありました。クヒオ王子自身も知事の座に就くことを強く望んでいましたが、前知事たちもファーリントン氏の知事任命を支持し、第六代準州知事に任命されました。1925年にもクーリッジ大統領により再度知事として任命されています。
パイナップル産業の発展
1800年代後半から、サトウキビ産業がハワイの経済の要であった中、1901年からパイナップルの生産を始めた人物がいました。それが、後に「パイナップル・キング」の呼び名を手にするジェームズ・D・ドール、ドール知事のいとこにあたる人物です。ハワイアン・パイナップル・カンパニーを設立し、オアフ島ワヒアワの土地でパイナップル生産を始めました。このビジネスは徐々に拡大し、ついに1922年にはラナイ島を購入し、大規模生産を始めるにまで至りました。
アジアからの移民が禁止される
サトウキビ、パイナップルと大規模な生産が行われていたハワイでは、その労働力は移民の力に頼っていました。特に日本人移民の数は突出しており、1924年までに218,000人の日本人がハワイに渡りました。契約終了後は、日本に帰国、アメリカ本土への移住、ハワイに定住と様々な道に進みますが、ハワイにおける日本人の人口は116,615人、当時のハワイ全人口の42%を占めるまでになっていました。そのような中で、アメリカは1924年に日本人のアメリカへの移民を禁ずる移民法(ジョンソン―リード法)を施行しました。
初代知事から第6代目の知事について、それぞれ当時の社会の様子を簡単にご紹介しながら見てみました。それぞれの知事の時代を、政治、経済、観光、文化など、それぞれ違った角度で歴史を追うと、さらに当時の社会についての理解が深まります。気になる知事の時代が見つかったら、そこから歴史をさらに深く掘り下げてみてはいかがでしょうか。
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ロバーツさゆりSayuri Roberts担当講師
東京生まれ。筑波大学・比較文化学類にて北米の歴史・文化を学び、英会話スクールの講師等を経て、結婚を機にハワイへ移住。Native Hawaiian Hospitality Association主催の歴史ツアー「Queen's Tour(当時)」に参加し、ツアーガイドの方に、日本語の通訳を頼まれたことから、2004年、ガイドとして登録、研修の上、日本語の歴史ツアーを始める。2006年、「Queen's Tour」の終了を機に、ツアーの継続について主催者の了承を得て、Hawaii Historic Tour LLCを発足、「ワイキキ歴史街道日本語ツアー(当時)」(その後「ワイキキ歴史街道ツアー」に改称)を開始。2007年、「ダウンタウン歴史街道ツアー」もスタート。テレビ、ラジオ、雑誌等、メディア出演多数。 『お母さんが教える子供の英語』(はまの出版)著者。
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