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所用時間5min
2021.02.02
カルアオカウ(現インターナショナルマーケットプレイス)の歴史
ここがポイント
ワイキキの中心地、現在インターナショナルマーケットプレイスがある場所の歴史を学びます。目印でもある大きなバニヤンツリーは誰が植えたのか、この地の持ち主は誰だったのか、どのように使われていたのかなどを詳しく掘り下げます。
世界中から人々が集まるワイキキ。多くの人々が行き交い、高層のホテルに囲まれたワイキキの中心地に、オアシスのような巨大なバニヤンツリーを持つモール、インターナショナルマーケットプレイスがあります。2016年8月にリニューアルオープンし、モダンな外観が印象的な建物ですが、この地は大変深い歴史を持っています。時の移り変わりを物語るバニヤンツリーも含めて、インターナショナルマーケットプレイスのある地の歴史を見てみましょう。
カルアオカウ
東はダイヤモンドヘッドから、西はアラモアナセンター辺りの海沿いに広がる「ワイキキ」と呼ばれる地域は、かつてはさらに細かく地域ごとに名前が付けられており、現在のロイヤルハワイアンセンター周辺は「ヘルモア」、プリンセス・カイウラニホテル近辺は「アイナハウ」などと呼ばれていました。インターナショナルマーケットプレイスのある地は、「カルアオカウ」。カルアオカウは、Kaluʻaokaʻuと書けば「カウ(人名)の墓」、Kaluaokauと書けば「カウの穴」、その他「穴の場所」など、意味は様々に解釈されています。
このカルアオカウの地には、北に広がるマノアやパロロの谷からワイキキへと流れる川の支流の一つ、アプアケハウ川(ʻĀpuakēhau)が流れ込んでいました。新鮮な山から流れ来る水により、肥沃な土地として、長くタロイモ畑が広がっていた場所でした。
バニヤンツリー
カラカウア通りからインターナショナルマーケットプレイスに入ると、立派なバニヤンツリー(インド原産、和名:ベンガルボダイジュ)が人々を迎えてくれます。
現在、高さが18mにもなるこの木は、1846年にニュージーランドからハワイに移住したヘンリー・マクファーレン夫妻が、この地に住んでいた1800年代中頃に植えられたもので、現在も保護され、大切に育てられています。バニヤンツリーは、横に伸びた枝から下に向かって根(気根)が伸び、地面に到達すると幹のように太く固まって枝を支え、横に広がるように育って行きます。そのため、冷房のない昔のハワイでは、涼しい木陰を作るという役割を果たし、人が集まる場所や家の庭などに植えられました。
(バニヤンツリーの下に設置されたベンチで談笑する人々。右端の女性はカイウラニ王女)
インターナショナルマーケットプレイスにバニヤンツリーを植えたヘンリー・マクファーレン氏は、ホノルルのダウンタウンやワイキキでホテルを経営するビジネスマンで、1858年に、自ら所有するダウンタウンのコマーシャル・ホテルにて、ハワイに初めてガス灯をもたらした人物です。
二人の王族の夏の離宮
このカルアオカウの地は、ハワイで初めて選挙にて選出されることになる、ウィリアム・チャールズ・ルナリロ王が所有していました。派手な生活を好まないルナリロ王は、緑に囲まれ、波の音が優しく響くこのワイキキの地に別宅を構え、ポイと、ワイキキで獲れる魚というシンプルな食事を楽しんだそうです。
(ルナリロ王)
1872年12月11日、カメハメハ5世が後継者を指名できずに亡くなったため、当時の憲法にのっとり、次期ハワイ国王は選挙で選ばれることになりました。既に人々の間で人気だったルナリロは、選挙をしなくとも王になれる人物だと囁かれていましたが、対抗馬として選挙で戦うことになったのは、その次の選挙で選出されることになるカラカウアでした。やはりルナリロは圧倒的な支持を集め、ハワイ王国6代目の王となりますが、間もなく結核を患い、1874年にこのワイキキの家で、39歳で亡くなりました。王となってわずか1年と26日目、39歳の誕生日を迎えた、その3日後のことでした。
ルナリロ王は独身だったため、亡くなる前に、ワイキキのこの土地を親しい友であるエマ女王に託しました。エマ女王は、息子のアルバート王子をわずか4歳で亡くし、翌年には夫であるカメハメハ4世を亡くすという悲劇に襲われており、ルナリロ王からのこの最後の気遣いは、女王を少なからず力づけたのではないでしょうか。
(エマ女王)
ルナリロ王から相続したこのワイキキの家と土地の周りに、エマ女王は塀を建設しました。その塀には、ダイヤモンドヘッドにかつてあったヘイアウ、パパエナエナ(Papaʻenaʻena)で使われていた石が使われました。
カメハメハ4世が即位したのが1856年。この頃には、1778年にクック船長がハワイに上陸して以降、多くの外国人がハワイに居住するようになったり、また、交易等でハワイに立ち寄ったりすることで、外国から入ってきた病気がハワイの人々の間で広まって命を落とす人が絶えず、人口が急減していました。エマ女王はそれを大変憂慮し、ハワイで初となる病院、クイーンズ・ホスピタル(現クイーンズ・メディカル・センター)を、ホノルル・ダウンタウンにカメハメハ4世と共に設立、1859年に完成させました。
(1860年当時のクイーンズ・ホスピタル)
ワイキキの夏の離宮でよく過ごしていたエマ女王は、1885年に亡くなりました。女王の意思により、女王の持つ土地は信託機関が管理することとなり、その土地を活用して得られた収益は、クイーンズ・ホスピタルを通して、現在もハワイの人々への医療などに役立てられています。
観光地としてのワイキキの発展
ワイキキの土地は、農地や養魚場、王族の住居あるいは別荘地として長く使われていましたが、1893年にハワイ王国が終焉を迎え、1900年にはアメリカ合衆国に併合されてアメリカの準州となって以降、その姿を変えていくことになります。
ワイキキは豊富な水に恵まれたことでタロイモの栽培が盛んでしたが、その水田は、伝染病を媒介する蚊の温床となり、かつて王族が夏の日々を楽しんだ場所は、1920年代までには健康を害する恐れのある場所だと懸念されるようになっていました。この問題に対処するために建設されたアラワイ運河の完成により、農地や養魚場は埋め立てられ、ワイキキの観光地としての本格的な発展が促されました。
アラワイ運河の建設について、詳しくはこちらをご覧ください。
ワイキキが埋め立てられ、観光地化が進む1930年代、カリフォルニア州のハリウッドでポリネシアをテーマにしたレストラン「ドン・ザ・ビーチコマー」を経営していた人物がいました。ドン・ビーチ(Donn Beach)、本名アーネスト・レイモンド・ボーモント・ギャント(Ernest Raymond Beaumont Gantt)です。レストランはハリウッドで活躍する俳優たちの間でも人気となっていました。
後にビーチ氏はハワイに居を移し、エマ女王の土地を管理していたクイーン・エマ・ファンデーションと土地の賃貸契約を結び、1955年1月、後に「インターナショナルマーケットプレイス」と呼ばれるようになる「ワイキキ・ビレッジ」の建設を発表しました。
ワイキキ・ビレッジは、日本、韓国、中国、ポリネシアの島々をテーマに小さな村を作り、商品や食べ物を売るブースが並ぶ商業施設で、草ぶき屋根や木彫りのティキ像があちらこちらに見え、観光客がハワイ、そしてポリネシアの文化や雰囲気を体験できるというものでした。ワイキキ・ビレッジ、そして、「インターナショナルマーケットプレイス」と新たな名称を得た商業施設は、1957年に完成。すぐにワイキキのランドマークとして人々を大いに集め、楽しませました。
ハワイを代表する歌手、ドン・ホー
近代サーフィンの父として知られるデューク・カハナモク氏も、1960年代から70年代にかけて、インターナショナルマーケットプレイス内にナイトクラブを持っており、1962年からそのステージで歌声を披露していたのが、歌手のドン・ホー氏(本名Donald Tai Loy Ho)でした。1966年にリリースされた「タイニー・バブルズ」はアメリカで大ヒットとなり、アメリカ中を渡ってのコンサートに、テレビ番組にと大活躍しました。2007年に他界されましたが、2017年8月13日、ドン・ホー氏の誕生日に合わせて、銅像がバニヤンツリーの下に設置されました。インターナショナルマーケットプレイスゆかりのハワイを代表するスターとして、ステージで歌う姿を今に伝えています。
インターナショナルマーケットプレイスはオープンから50年を超え、隣接していた商業施設やホテルを含めて、大規模な再開発工事を経て、2016年8月にモダンな外観と共にリニューアル・オープンしました。
建物は大きく変わりましたが、かつてこの地を流れていたアプアケハウ川を再現していたり、100年以上前のワイキキビーチの様子を写真で見ることができたりと、歴史を伝える場所がたくさん設けられています。また、この地に夏の離宮を持っていたエマ女王も、カメハメハ4世、アルバート王子と共に銅像となって設置されています。
(エマ女王の銅像)
(手前:カメハメハ4世とアルバート王子、ステージを挟んで奥にエマ女王の銅像)
このカルアオカウの地には川が流れ、タロイモ畑が広がる中、王族が夏の日々を楽しみました。さらにはスターがその声で人々を熱狂させた日々があり、そして、それらをずっと見守り続けてきたバイヤンツリーは今も健在です。この地の歴史を目で見てとれるように設計されている新しいインターナショナルマーケットプレイスは、買い物だけでなく、歴史を学ぶ場所としても大きな存在感を見せています。
(白黒写真:Hawaii State Archivesより。その他の写真はHawaii Historic Tour LLC所有)
カルアオカウ
東はダイヤモンドヘッドから、西はアラモアナセンター辺りの海沿いに広がる「ワイキキ」と呼ばれる地域は、かつてはさらに細かく地域ごとに名前が付けられており、現在のロイヤルハワイアンセンター周辺は「ヘルモア」、プリンセス・カイウラニホテル近辺は「アイナハウ」などと呼ばれていました。インターナショナルマーケットプレイスのある地は、「カルアオカウ」。カルアオカウは、Kaluʻaokaʻuと書けば「カウ(人名)の墓」、Kaluaokauと書けば「カウの穴」、その他「穴の場所」など、意味は様々に解釈されています。
このカルアオカウの地には、北に広がるマノアやパロロの谷からワイキキへと流れる川の支流の一つ、アプアケハウ川(ʻĀpuakēhau)が流れ込んでいました。新鮮な山から流れ来る水により、肥沃な土地として、長くタロイモ畑が広がっていた場所でした。
バニヤンツリー
カラカウア通りからインターナショナルマーケットプレイスに入ると、立派なバニヤンツリー(インド原産、和名:ベンガルボダイジュ)が人々を迎えてくれます。
現在、高さが18mにもなるこの木は、1846年にニュージーランドからハワイに移住したヘンリー・マクファーレン夫妻が、この地に住んでいた1800年代中頃に植えられたもので、現在も保護され、大切に育てられています。バニヤンツリーは、横に伸びた枝から下に向かって根(気根)が伸び、地面に到達すると幹のように太く固まって枝を支え、横に広がるように育って行きます。そのため、冷房のない昔のハワイでは、涼しい木陰を作るという役割を果たし、人が集まる場所や家の庭などに植えられました。
(バニヤンツリーの下に設置されたベンチで談笑する人々。右端の女性はカイウラニ王女)
インターナショナルマーケットプレイスにバニヤンツリーを植えたヘンリー・マクファーレン氏は、ホノルルのダウンタウンやワイキキでホテルを経営するビジネスマンで、1858年に、自ら所有するダウンタウンのコマーシャル・ホテルにて、ハワイに初めてガス灯をもたらした人物です。
二人の王族の夏の離宮
このカルアオカウの地は、ハワイで初めて選挙にて選出されることになる、ウィリアム・チャールズ・ルナリロ王が所有していました。派手な生活を好まないルナリロ王は、緑に囲まれ、波の音が優しく響くこのワイキキの地に別宅を構え、ポイと、ワイキキで獲れる魚というシンプルな食事を楽しんだそうです。
(ルナリロ王)
1872年12月11日、カメハメハ5世が後継者を指名できずに亡くなったため、当時の憲法にのっとり、次期ハワイ国王は選挙で選ばれることになりました。既に人々の間で人気だったルナリロは、選挙をしなくとも王になれる人物だと囁かれていましたが、対抗馬として選挙で戦うことになったのは、その次の選挙で選出されることになるカラカウアでした。やはりルナリロは圧倒的な支持を集め、ハワイ王国6代目の王となりますが、間もなく結核を患い、1874年にこのワイキキの家で、39歳で亡くなりました。王となってわずか1年と26日目、39歳の誕生日を迎えた、その3日後のことでした。
ルナリロ王は独身だったため、亡くなる前に、ワイキキのこの土地を親しい友であるエマ女王に託しました。エマ女王は、息子のアルバート王子をわずか4歳で亡くし、翌年には夫であるカメハメハ4世を亡くすという悲劇に襲われており、ルナリロ王からのこの最後の気遣いは、女王を少なからず力づけたのではないでしょうか。
(エマ女王)
ルナリロ王から相続したこのワイキキの家と土地の周りに、エマ女王は塀を建設しました。その塀には、ダイヤモンドヘッドにかつてあったヘイアウ、パパエナエナ(Papaʻenaʻena)で使われていた石が使われました。
カメハメハ4世が即位したのが1856年。この頃には、1778年にクック船長がハワイに上陸して以降、多くの外国人がハワイに居住するようになったり、また、交易等でハワイに立ち寄ったりすることで、外国から入ってきた病気がハワイの人々の間で広まって命を落とす人が絶えず、人口が急減していました。エマ女王はそれを大変憂慮し、ハワイで初となる病院、クイーンズ・ホスピタル(現クイーンズ・メディカル・センター)を、ホノルル・ダウンタウンにカメハメハ4世と共に設立、1859年に完成させました。
(1860年当時のクイーンズ・ホスピタル)
ワイキキの夏の離宮でよく過ごしていたエマ女王は、1885年に亡くなりました。女王の意思により、女王の持つ土地は信託機関が管理することとなり、その土地を活用して得られた収益は、クイーンズ・ホスピタルを通して、現在もハワイの人々への医療などに役立てられています。
観光地としてのワイキキの発展
ワイキキの土地は、農地や養魚場、王族の住居あるいは別荘地として長く使われていましたが、1893年にハワイ王国が終焉を迎え、1900年にはアメリカ合衆国に併合されてアメリカの準州となって以降、その姿を変えていくことになります。
ワイキキは豊富な水に恵まれたことでタロイモの栽培が盛んでしたが、その水田は、伝染病を媒介する蚊の温床となり、かつて王族が夏の日々を楽しんだ場所は、1920年代までには健康を害する恐れのある場所だと懸念されるようになっていました。この問題に対処するために建設されたアラワイ運河の完成により、農地や養魚場は埋め立てられ、ワイキキの観光地としての本格的な発展が促されました。
アラワイ運河の建設について、詳しくはこちらをご覧ください。
ワイキキが埋め立てられ、観光地化が進む1930年代、カリフォルニア州のハリウッドでポリネシアをテーマにしたレストラン「ドン・ザ・ビーチコマー」を経営していた人物がいました。ドン・ビーチ(Donn Beach)、本名アーネスト・レイモンド・ボーモント・ギャント(Ernest Raymond Beaumont Gantt)です。レストランはハリウッドで活躍する俳優たちの間でも人気となっていました。
後にビーチ氏はハワイに居を移し、エマ女王の土地を管理していたクイーン・エマ・ファンデーションと土地の賃貸契約を結び、1955年1月、後に「インターナショナルマーケットプレイス」と呼ばれるようになる「ワイキキ・ビレッジ」の建設を発表しました。
ワイキキ・ビレッジは、日本、韓国、中国、ポリネシアの島々をテーマに小さな村を作り、商品や食べ物を売るブースが並ぶ商業施設で、草ぶき屋根や木彫りのティキ像があちらこちらに見え、観光客がハワイ、そしてポリネシアの文化や雰囲気を体験できるというものでした。ワイキキ・ビレッジ、そして、「インターナショナルマーケットプレイス」と新たな名称を得た商業施設は、1957年に完成。すぐにワイキキのランドマークとして人々を大いに集め、楽しませました。
ハワイを代表する歌手、ドン・ホー
近代サーフィンの父として知られるデューク・カハナモク氏も、1960年代から70年代にかけて、インターナショナルマーケットプレイス内にナイトクラブを持っており、1962年からそのステージで歌声を披露していたのが、歌手のドン・ホー氏(本名Donald Tai Loy Ho)でした。1966年にリリースされた「タイニー・バブルズ」はアメリカで大ヒットとなり、アメリカ中を渡ってのコンサートに、テレビ番組にと大活躍しました。2007年に他界されましたが、2017年8月13日、ドン・ホー氏の誕生日に合わせて、銅像がバニヤンツリーの下に設置されました。インターナショナルマーケットプレイスゆかりのハワイを代表するスターとして、ステージで歌う姿を今に伝えています。
インターナショナルマーケットプレイスはオープンから50年を超え、隣接していた商業施設やホテルを含めて、大規模な再開発工事を経て、2016年8月にモダンな外観と共にリニューアル・オープンしました。
建物は大きく変わりましたが、かつてこの地を流れていたアプアケハウ川を再現していたり、100年以上前のワイキキビーチの様子を写真で見ることができたりと、歴史を伝える場所がたくさん設けられています。また、この地に夏の離宮を持っていたエマ女王も、カメハメハ4世、アルバート王子と共に銅像となって設置されています。
(エマ女王の銅像)
(手前:カメハメハ4世とアルバート王子、ステージを挟んで奥にエマ女王の銅像)
このカルアオカウの地には川が流れ、タロイモ畑が広がる中、王族が夏の日々を楽しみました。さらにはスターがその声で人々を熱狂させた日々があり、そして、それらをずっと見守り続けてきたバイヤンツリーは今も健在です。この地の歴史を目で見てとれるように設計されている新しいインターナショナルマーケットプレイスは、買い物だけでなく、歴史を学ぶ場所としても大きな存在感を見せています。
(白黒写真:Hawaii State Archivesより。その他の写真はHawaii Historic Tour LLC所有)
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ロバーツさゆりSayuri Roberts担当講師
東京生まれ。筑波大学・比較文化学類にて北米の歴史・文化を学び、英会話スクールの講師等を経て、結婚を機にハワイへ移住。Native Hawaiian Hospitality Association主催の歴史ツアー「Queen's Tour(当時)」に参加し、ツアーガイドの方に、日本語の通訳を頼まれたことから、2004年、ガイドとして登録、研修の上、日本語の歴史ツアーを始める。2006年、「Queen's Tour」の終了を機に、ツアーの継続について主催者の了承を得て、Hawaii Historic Tour LLCを発足、「ワイキキ歴史街道日本語ツアー(当時)」(その後「ワイキキ歴史街道ツアー」に改称)を開始。2007年、「ダウンタウン歴史街道ツアー」もスタート。テレビ、ラジオ、雑誌等、メディア出演多数。 『お母さんが教える子供の英語』(はまの出版)著者。
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