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2021.02.19

旧モアナホテル

ここがポイント

旧モアナホテル(現モアナ・サーフライダー、ウェスティン・リゾート&スパ)のある場所、そしてモアナホテルと呼ばれていた時代の歴史を学びます。

高層のホテルやビルが建ち並ぶワイキキで、美しい装飾が目をひく白亜の建物があります。「モアナホテル」(現モアナ・サーフライダー、ウェスティン・リゾート&スパ)―優雅な、そして凜とした姿で「ファースト・レディ・オブ・ワイキキ」とも称されるホテルです。木造建築を残す、歴史あるこのホテルが建てられる前の様子も含めて、その深い歴史を紐解いてみましょう。

ウルコウとヘルモア


13世紀、オアフ島の大首長であったマイリクカヒ(Māʻilikūkāhi)が、オアフ島の政治の中心地をオアフ島中部からワイキキに移して以降、1809年までワイキキはオアフ島の首都の役割を果たしていました。ワイキキの中でも、特に王族の居住地として使われてきたのが、ワイキキの中心部を流れていた川、アプアケハウ川の周辺の地、ウルコウ(またはコウ、旧モアナホテル近辺)やヘルモア(現ロイヤルハワイアンセンター近辺)でした。

マイリクカヒから数えて6代目の子孫となるカクヒヘヴァ(Kākuhihewa)が住んでいた場所が、ウルコウ(Ulukou)でした。Uluは林、Kouは古代ハワイでよく食器に加工して使われていたコウの木という意味です。カクヒヘヴァがこの地に住んでいた際に、1羽の鶏が地面を熱心に引っ掻きました。これは何かを暗示しているのかもしれないと、カクヒヘヴァがその場所にヤシの実を一つ植えると、後に1万本のヤシが林を作ったという伝説があります。それが、ウルコウに隣接するヘルモア(Helumoa、Heluは鳥などが地面を引っ掻くこと、Moaは鶏)の地名の由来となっており、その後、そのヤシの林は王族によって大切に守られました。

アプアケハウ川をはじめ、ワイキキの北に広がる山々から注ぎ込む川や湧き水によって、豊富な真水に恵まれたワイキキには、タロイモ畑や養魚場が築かれ、のんびりとした農村の風景が広がっていた場所でした。カクヒヘヴァが住居を構えていたように、その後の1800年代に活躍した王族もワイキキに住居を持ち、忙しい公務の間に息抜きをしたり、外国からの客人をもてなす場所としてワイキキの地は使われていました。

ワイキキに豪邸が建ち並ぶ時代


1890年代に入ると、ハワイで事業を成功させるなどで財を成した人々が、ワイキキに豪邸を建てていくようになりました。ハワイ王国時代に砂糖精製事業と不動産業で成功したジェームズ・キャンベル氏、ハワイ共和国大統領からハワイ準州初代知事となったサンフォード・ドール氏、サトウキビ産業のビッグ・ファイブの一つ、キャッスル&クック社のジェームズ・キャッスル氏など、そうそうたるメンバーが名を連ねる中に、ウォルター・チェンバーレン・ピーコック氏の名もありました。

W.C.ピーコック


1858年にイギリスのランチェスターに生まれ、1881年にハワイに移住したピーコック氏は、酒類の卸売業と、ダウンタウンでのサルーン経営で財を成した人物です。経営していた3つのサルーンは、ホノルル港にほど近く、当時の船乗り達の御用達となって、大変な盛況ぶりだったといいます。

1800年代後半のワイキキ

1800年代後半のワイキキのビーチは、一般市民が日帰りで楽しむような場所で、いわゆる「海の家」のような「バスハウス」がいくつかビーチ沿いにあり、バスタオル、水着、更衣室を借りられるようになっていました。バスハウスのいくつかには宿泊する設備がありましたが、ワイキキに宿泊するということはまだ一般的ではない時代でした。一方で、ハワイに船で到着する人々が宿泊していたのは、主にホノルル港に近いダウンタウンで、古くは1850年代には、ホテルと呼べる宿泊施設がダウンタウンに生まれていました。


ワイキキに本格的なホテルを

そのような中、1890年代後半になり、ホノルルとサンフランシスコを結ぶ蒸気船が増便されると、ハワイへの訪問者数が増加していきましたが、ワイキキのビーチ沿いに主だった宿泊施設がなかったことから、ピーコック氏はワイキキに最初のリゾートホテルを建てることを提案、1896年に自ら「モアナホテル・カンパニーLtd.」を設立しました。当時有名な建築家、オリバー・G・トラップヘイガン氏がホテルを設計、イオラニ宮殿を建設したザ・ルーカス・ブラザーズが工事を担当し、1899年9月にホテル建設が始まりました。

旧モアナホテル 完成当時の様子



1901年3月11日、ついに「モアナホテル」(モアナ:海の意味)が開業の日を迎えました。それまでのハワイにおけるホテル建設史上、最も費用が掛かった建物となりましたが、大変手が込んだ造りで、同時に非常に先進的な建物でもありました。

当時のワイキキでは最も高い木造4階建て、ハワイにおいてもダウンタウンのビルに次いで2番目の高さを誇ったモアナホテル。コロニアル様式と呼ばれる、植民地時代を彷彿とさせるデザインで、古代ギリシャの柱のデザインを取り入れた多くの柱が、正面入り口のみならず、館内にも多用されました。1階部分には客室を設けず、ビリヤードパーラー、サルーン(バー)、図書館、レセプションルーム、オフィスが設けられ、2階から4階部分に、計75室の客室が設けられました。


発電機を所有していたため電気を使うことができ、館内は多数の電灯で照らされ、各客室にはそれぞれ風呂と電話が設置されました。電動のエレベーター、さらには製氷機まで備えており、それまでのバスハウスとは一線を画し、また、ビジネス客の多いダウンタウンのホテルとも違った、観光を目的とした人々向けの宿泊施設として、モアナホテルの完成は、ワイキキの新たな発展を予感させました。


(客室の様子)


(現在も使われているエレベーター。針でエレベーターの位置を教えてくれます。)

ホノルル港からモアナホテルまでの遠い道のり

まだ所々にのんびりとした農村の風景を残し、海やビーチでの時間も楽しめるワイキキにできた、最先端の設備を備えたホテル―モアナホテルの開業のニュースは海を渡り、特に裕福な人々の気持ちを捕らえました。モアナホテルの宿泊客は当時、大きなトランクに、数週間分の衣類などを詰めて、サンフランシスコからマトソン・ナビゲーション・カンパニーが運航する船に乗り、5日間の船旅を経てホノルル港に到着します。そこからワイキキのモアナホテルに向かうには、さらにミュール(ロバと馬をかけ合わせた動物)が引くトロリーに乗って、ホノルル港から45分間、舗装されていない道を移動する必要がありました。このトロリーが通ったワイキキの道の名は「ワイキキロード」、現在のカラカウア通りです。当時のワイキキロードをトコトコと行くトロリーは、乗り心地が良いものではなかったことでしょう。


(当時のトロリー)

農村や王族の本拠地、または別荘地の歴史が長いワイキキが、モアナホテルの開業によって観光地として発展していくには、まだ解決しないといけない課題が多くありました。その一つが、ホノルル港からワイキキまでの移動手段でした。舗装されていない、土の道をミュールが引くトロリーで移動するというのは、時間がかかるのと当時に、一度に移動できる人数にも限りがあり、効率的な移動手段では決してありません。

そのような中、1901年にホノルル港からダウンタウン、そして近隣の住宅地を結ぶ路面電車が完成。1903年2月には、ダウンタウンとワイキキを結ぶ路線が完成し、それまで45分かかっていたホノルル港からワイキキまでの移動時間が、28分に短縮。より多くの人々を、路面電車でスムーズにワイキキまで移動させることができるようになり、モアナホテルの宿泊客の港とワイキキ間の移動を大きく助けました。

この路面電車の開通により、地元の人々も含めて、ワイキキに多くの人を呼び込むことが可能になり、モアナホテルに続いて、1904年にはワイキキ水族館、1906年にはホノルル・シーサイド・ホテル、その後には、ハレクラニ、ピアポイント、ワイキキインといったホテルが開業するなど、ワイキキが人々の社交の場、レクリエーションを楽しむ場として発展していくことにつながりました。



(路面電車)

モアナ・ピアとバニヤンツリー

開業当初のモアナホテルの写真を見ると、海に一直線に伸びる桟橋のような物が写っています。これは船を寄せるための桟橋ではなく、桟橋を歩いて行き、海から風景を見たりして楽しむために設けられていたもので、モアナホテル建設前から、ピーコック氏が個人的に造っていたものでした。ピーコック・ピアと呼ばれていたこの桟橋は、ホテル開業後は、モアナ・ピアと改名され、宿泊客もこの桟橋から海や夕日を眺めてワイキキでの時間を楽しんでいましたが、老朽化して危険となったため、1930年に取り壊されました。



モアナホテルの宿泊客に、前述の桟橋のように特別なひと時を与えていたものに、バニヤンツリーがあります。開業から3年後の1904年に、当時の農業試験場の所長、ジャレッド・スミス氏によって植樹されたものです。植えられた際には、高さ2m程だったバニヤンツリーは、現在高さ約23m、幅約45mにまで成長しています。この木は、1979年にホノルル市郡のエクセプショナル・ツリー・リストに加えられました。このエクセプショナル・ツリー・リストとは、ホノルルの都市開発が進む中、歴史、文化的に価値のある植物を指定してリストに載せることで、保護することを目的としています。そのため、モアナホテルのバニヤンツリーは、許可なく伐採したり、剪定したりすることはできず、現在も厳しく管理された上で大切に育てられています。




ピーコック氏の手を離れた後のモアナホテル

1905年、モアナホテルの創業者であるピーコック氏は、ダウンタウンで既に大規模なホテルを経営していたアレクサンダー・ヤング氏にモアナホテルを売却、ピーコック氏は1909年に亡くなりました。

1918年、モアナホテルに増改築が施され、創業当時の木造の建物の両側に、コンクリート製の5階建ての建物が加わり、現在も残るアルファベットのHの形の建物となりました。

1920年代に入り、アラワイ運河を築くことでワイキキへの水の流れを止め、農地は埋め立てられて、ホテルや住宅、商業施設の建設に向けての土台が築かれ始めました。そのような中、ウルコウの西側、ヘルモアの地に、船会社のマトソン社がロイヤルハワイアンホテルを建設して1927年に完成。同時にマトソン社が豪華客船マロロを就航させることで、ハワイへ観光目的で訪れる人々も増えていきました。そして1932年、マトソン社がモアナホテルを所有することとなりました。

アラワイ運河の建設とその理由などについては、こちらをご覧ください。

ワイキキの知名度を一気に上げたラジオ放送


ラジオが人々の生活を彩っていた頃の1935年、ハワイの伝説的なラジオ放送が始まりました。「ハワイ・コールズ」。モアナホテルのバニヤンツリーのあるコートヤードを舞台に、ハワイアンミュージックを生演奏し、ワイキキビーチに打ち寄せる波の音まで捉え、ワイキキの「今」を伝えていました。放送の際には観客席も設けられ、ステージではハワイアンミュージックに合わせてフラも披露されており、その舞台で活躍していたのがヒロ・ハッティ(本名:クラリッサ・ハイリ)。フラダンサーでありながら、コメディアンでもあるハッティ氏は、笑いを誘うダンスで舞台を盛り上げ、モアナホテルに集まる人々をも楽しませていました。



放送開始当初は、カリフォルニアのラジオステーション2局が放送を受信し、アメリカ本土でハワイ・コールズを流していましたが、後に750局へと拡大し、アメリカ本土のみならず、世界にワイキキの名、ワイキキの波の音、そしてハワイアンミュージックが伝わり、観光地としてのハワイの知名度を上げることに貢献しました。この人気ラジオ番組は1975年に最終回を迎えるまで、40年間にも渡って続きました。

歴史的建造物として

1972年、木造建築の旧モアナホテル部分は、イオラニ宮殿やアロハタワーなどに並び、国家歴史登録材(National Register of Historic Places)に登録され、歴史的建造物として保存されています。120年もの歴史を越えてもなお、当時の姿を保ちつつ、創業当時の雰囲気を現代に残し、建物の中に入れば、まるで博物館のように歴史を私達に語りかけてきます。歴史あるバニヤンツリーと共に、旧モアナホテルの持つ歴史の奥深さをぜひ、その場で味わってみてください。




(白黒写真はHawaii State Archivesより、その他はHawaii Historic Tour LLC所有)
 
  • ロバーツさゆり
    Sayuri Roberts
    担当講師

    東京生まれ。筑波大学・比較文化学類にて北米の歴史・文化を学び、英会話スクールの講師等を経て、結婚を機にハワイへ移住。Native Hawaiian Hospitality Association主催の歴史ツアー「Queen's Tour(当時)」に参加し、ツアーガイドの方に、日本語の通訳を頼まれたことから、2004年、ガイドとして登録、研修の上、日本語の歴史ツアーを始める。2006年、「Queen's Tour」の終了を機に、ツアーの継続について主催者の了承を得て、Hawaii Historic Tour LLCを発足、「ワイキキ歴史街道日本語ツアー(当時)」(その後「ワイキキ歴史街道ツアー」に改称)を開始。2007年、「ダウンタウン歴史街道ツアー」もスタート。テレビ、ラジオ、雑誌等、メディア出演多数。 『お母さんが教える子供の英語』(はまの出版)著者。

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