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2021.04.02
ハワイにおけるお酒の歴史
ここがポイント
ハワイ旅行の楽しいひと時を演出する、ハワイ産のお酒。ハワイアンとアルコールの最初の出会いから、王族の食生活、ハワイ産の植物で作られる酒類など、詳しく学びます。
ステージで生演奏される、コンテンポラリー・ハワイアンの音楽を聴きながら、フルーティーなラムベースのカクテル「マイタイ」を楽しむひと時…。このような時間を、ハワイ旅行の楽しみの一つにされている方もいらっしゃるのではないでしょうか。
現代のテーブルを鮮やかな色で彩る、ハワイを代表するマイタイやブルーハワイといったカクテルに加え、ハワイならではの、独特でオリジナリティーあふれる醸造酒や蒸留酒も、ハワイでは数多く生産されています。メイド・イン・ハワイの酒類は、いつ頃、どのようにして生まれたのか。醸造酒、蒸留酒に着目して、ハワイにおけるお酒の歴史と、酒造メーカーの新たな挑戦などについて学んでみましょう。
アルコール飲料は古代ハワイの生活の中にあったのか
アルコールを含む飲み物は、古代ハワイの生活の中には一切なかったと、ハワイの歴史研究家である人々の間では認識されており、イギリス人のクック船長一行のハワイ上陸以降に、ハワイにアルコール飲料がもたらされたとされています。古代ハワイアンの生活の中には、アルコールは含まれていませんが、飲むと体の筋肉が弛緩し、アルコール飲料と似た作用のある「アヴァ ʻawa(またはカヴァ)」という飲み物があり、こちらは日常に密着した飲み物でした。アヴァの根から作られます。
アヴァについて詳しくはこちらをご覧ください。
(アヴァの木)
クック船長一行により、ハワイアンと食事をした際の様子や、アヴァを使った儀式の様子を記述したものが残されていますが、その中では、アヴァは「リカー(酒)」と記されているため、アヴァを飲んだ後の人々の様子が、お酒を飲んだ後のように見えていたのでしょう。ちなみに、クック船長一行との出会いでもたらされた、古代ハワイアンのアルコールとの最初の出会いは「ビール」でした。
航海時代のビール
1400年代中頃以降、ポルトガルとスペインを筆頭に大航海時代が始まり、ヨーロッパの船が海上を長期間に渡って移動し、世界の点と点を結んでいきました。しかし、航海の時間が長ければ長い程、船乗りをある病気が苦しめるようになります。「壊血病」という病気です。
航海中の食生活の中に、新鮮な野菜や果物が全く取れない時間が長くなることで、ビタミンCが体内から欠乏し、体中の器官から出血し、死に至る病気です。1700年代後半に至るまで、壊血病は船乗り達にとって最も恐れられた病気で、大変多くの命が壊血病によって奪われていました。
(クック船長。Wikipediaより)
この恐ろしい壊血病に、船員を一人も罹患させずに航海を成功させたのが、ハワイにやってきたクック船長でした。寄港地があれば、ビタミンCを船員に補給させるために、野菜や果物を購入しながら世界を探検していけますが、太平洋の海上を長期間移動する間は、クック船長は瓶詰にしたニンジンのジャムや、キャベツの漬物であるザワークラウト、レモンやライムを絞ったジュースを凝縮させたものを船に乗せておき、船員に食べさせることで、壊血病を予防しました。
さらに当時、ビールは壊血病を予防する、また、治療薬になると信じられており、ビールを作る原料となるホップも船に乗せて、行く先々で手に入れた材料で、ビールを作ることができるようにしていました。
ハワイで初めてビールが作られる
1778年1月、ハワイを発見したクック船長一行は、カウアイ島に近づき停泊。島にはサツマイモ、サトウキビ、プランテイン(バナナに似た果実で調理用として使う)が植えられているのが見えました。発酵により、糖が分解されることでアルコールと炭酸ガスが生成されることから、カウアイ島に植えられていたサトウキビと、持参していたホップを使って試験的にビールを作ってみたところ、美味しいビールができあがったそうです。
翌年、クック船長一行の一人、ナサニエル・ポートロック氏は、地面を掘って作ったオーブンであるイムで焼いたキー(ティー、kī/ti)の根に水を加え、自然発酵させてビールを作りました。このキーは、歴史に名を残すアルコール飲料を生み出すことになります。
オコレハオ(ʻōkolehao)
キーの根をイムで蒸し焼きにしたものは、古代ハワイでは、おやつやデザートのように食べられていました。
(キー)
そこにイギリス人の知恵が加わり、水を加え、発酵させてビールが出来上がりました。後に、オーストラリアから逃げ出した囚人がハワイにたどり着き、ビールを蒸留することで、より強いアルコール度数を持つ飲み物を作る方法をハワイアンに伝授。そこから、蒸留酒作りが始まりました。
1809年から1810年の間にハワイに滞在していたアーチボルド・キャンベル氏が、キーの根から作られる蒸留酒の作り方を以下のように記しています。(抄訳)
「イムでキーの根を加熱し、24時間後に取り出して、糖蜜のような甘さのジュースが取れる根を叩いたりして傷つけ、カヌーの中に入れて5、6日間発酵させていた―。
ひょうたんで作った器の底を切り取り、いくつも縦につなげて、一番上には銅の円錐形の蓋に木でつくったチューブを付け、鉄鍋の上において蒸留器が作られていた―。」
鉄鍋が蒸留器として使われていたので、出来上がった蒸留酒は「オコレハオ(ʻōkolehao)」(鉄の尻 ʻōkole:尻、hao:鉄)と呼ばれました。オコレハオは現在も、蒸留酒製造会社Island Distillersが製造、販売しています。アルコール度数は50度と、ウイスキーよりも高い度数となっています。
(ベージュ色のボトルに入った現代の「オコレハオ」)
ハワイが準州となって間もない頃は、蒸留酒を作ること自体が準州の法律で禁止されていました。1906年に合法的に蒸留酒が作れるようになってから、最初に作られたのがオコレハオでした。
王族がラムと出会う
(カメハメハ大王)
1791年、カメハメハ(ハワイ王国樹立前なので「大王」は付けていません)は、側近のジョン・ヤング、アイザック・デイビスと共に、ハワイ島カイルア-コナのケアホレ・ポイントに停泊したマクスウェル船長の船に招待され、ラムを初めて味わう体験をしました。オアフ島を制圧し、ハワイ王国を樹立したカメハメハ大王がホノルルに居を構えていた際には、大王自身も蒸留酒製造所を設け、ラムを製造しています。ラムはサトウキビを原料に作られるので、ハワイでは材料の入手が安易で、1820年代までには、いくつもの小規模な蒸留酒製造所ができ、王族のみならず、一般の人々にもラムは広く飲まれるようになりました。
(カアフマヌ女王)
1820年にキリスト教宣教師一行がハワイに到達した後、カメハメハ大王の妃の一人、カアフマヌ女王が首相にあたるクヒナ・ヌイとして国を支える立場となりますが、女王はキリスト教に基づく国造りを目指し、アルコールが人々の生活に浸透することを、快く思ってはいませんでした。そのため、ラム製造のために育てられていたサトウキビを、全て伐採してしまう、ということもしています。その一方で、実はキリスト教宣教師たち自らビールの製造を行い、ラム、ワイン、ジン、ブランデーを大量に購入していたということが分かっています。
兄であるカメハメハ2世が亡くなり、10歳程で即位することとなったカメハメハ3世を支えていたカアフマヌ女王亡き後は、3世の異父姉であるキナウがクヒナ・ヌイとなりますが、3世とキナウは意見が衝突することが多々あり、ついに3世は1833年、社会を厳しく統制する方向性を示すキナウを解任します。
(カメハメハ3世)
カメハメハ3世は、より寛容な政策を施したため、アルコールやギャンブルが人々に浸透し、学校や教会にさえ人々は行くことをやめてしまう、ということになってしまいました。飲酒を原因とした争いが絶えず、ついに宣教師をはじめ、完全な禁酒が必要ではないかと申し出る人々が出始めました。
1835年にはついに、カメハメハ3世もキナウの復権を認めざるを得ない形となり、その後は人々も学校や教会に戻り、生活にも変化が見えてきました。1838年、ハワイで初の酒類販売権法が施行され、酒類を売ることは免許制となり、酒類の販売は平日は夜10時までと、土曜日の夜から月曜日の朝までと限定されました。
イオラニ宮殿のある日のディナーメニュー
カメハメハ3世以降、ハワイ王国を支えた国王や女王にとっても、ワインやビールなどのアルコール飲料は身近な存在でした。1883年2月14日にイオラニ宮殿で出されたのディナーメニューには、魚料理、肉料理、それぞれに合うワインがペアリングとして併記されています。
・スープ(インド風豆スープ、タートルスープ、チキンライススープ、牛肉のスープ)とシェリー酒
・魚料理とホック&ラインワイン(ドイツ産白ワイン)
・アントレ(主菜、鴨肉のマッシュルーム添え、マトンのカツレツ、仔牛のフィレなど)とクラレット&ブルゴーニュの赤ワイン
・ロースト料理(ターキー、ハム、鴨肉、チキンパイなど)とシャンパン
・カレー(エビカレー、鴨カレー、チーズカレー)とビール
・デザート(ワインゼリー、スポンジケーキ、フルーツケーキ、アイスクリーム)と甘いポートワイン
・フルーツ、紅茶、コーヒー
メニューの写真は、イオラニ宮殿公式ウェブサイトにも掲載されています。
こちらからご覧ください。
(1889年、カラカウア王のワイキキにある別宅にて開かれたパーティーの様子。テーブルには何本ものお酒の瓶が置かれているのが見える)
港町ホノルルの様子
1822年までには、港町として発展しつすあったホノルルでは、7か所のバーや酒屋が外国人によって経営されていました。ハワイで始まったビジネスの中でも、飲酒できる店の経営は、非常に古い部類に入ります。1800年代中頃までには、ホノルルだけで、45か所で酒類を提供するようになっていました。
その頃、ダウンタウンにあるヌウアヌ・アベニューは「フィッド(Fid)・ストリート」とあだ名が付けられていました。フィッドは船乗りの間で使われていた言葉で、アルコール飲料のことを指します。この道沿いには、多くの酒場やバーが集まっていました。
(1890年のヌウアヌアベニューの様子)
ハワイで最初にアルコール飲料を販売した人物
1778年のクック船長一行の到来を機に、ハワイの地にてビールが作られましたが、その5年後にハワイにやって来たスペイン人のドン・フランシスコ・デパウラ・マリン氏も、自らビールを醸造し、ハワイで最初にビールを販売した人物とされています。
マリン氏は西洋の軍事兵器に詳しく、オアフ島制圧に乗り出すカメハメハのアドバイザーを務め、また、ハワイの島々への植物の輸入や栽培についての責任者でもありました。パイナップルをハワイに持ち込み、最初に栽培したのがマリン氏です。マリン氏はビールの醸造、そこからラムを作り出していただけでなく、ハワイで初めてワインを醸造し、それを蒸留してブランデーまで作っていました。
マリン氏は、ホノルル港に程近い場所に自宅を持っており、1810年には、自宅とダイニングルームを、ハワイ訪問者が利用できるようにし、自ら作ったアルコール飲料を、自宅のダイニングルームやゲストハウス、自ら営むサルーンなどで販売しました。
ハワイにおける本格的なビール生産の始まり
ハワイにおける本格的なビール生産は、1854年、ホノルルのフォート・ストリートにあった醸造所で始まりました。この時に使われていた材料は小麦とホップで、当時の新聞には「ハワイで作られる飲料の中で、最も健康に良いものとして、人々に勧められるものだ…」と記されています。
その後も、1800年代後半には、ハワイアン・ブリューワリー、ギルバート・ウォーラー・ブリューワリ―Co.などが設立され、1899年には、ホノルル・ブリューイング・アンド・モルティング・カンパニーが設立されました。
このホノルル・ブリューイング・アンド・モルティング・カンパニーは、ホノルルのクイーン・ストリートに、サンフランシスコとニューヨークから建材を持ち込んで工場を建て、1901年から「プリモビール」の生産を始めました。
1960年に一度生産を中止しますが、味の改良やラベルの変更などが施され、現在はアメリカ本土の工場で作られたプリモビールがハワイで販売されています。現在も、ビール工場だった建物は残されており、内部をコンドミニアムに改築しましたが、薬剤の匂いが取れず、閉鎖されたままとなっています。しかしながら、建物の前面には、この工場を建てたホノルル・ブリューイング・アンド・モルティング・カンパニーの名が残り、レンガ造りの当時の工場の姿が今に残されています。
(クイーン・ストリートに残る元ビール工場の建物)
(プリモビール)
禁酒法の時代
ハワイにおけるアルコール飲料の商業的な生産が活発化していった1800年代終わりから1900年代初頭ですが、アルコール中毒や、アルコールを原因とした問題の増加を背景に、キリスト教徒を中心にアンチ・サルーン・リーグが結成されました。この団体は、ハワイのみならず、アメリカ本土においても結成されており、禁酒法成立に向けて、ワシントンDCにてロビー活動を行っていました。ついに1918年、当時のウィルソン大統領の署名により、ハワイにおける禁酒法が成立し、1933年まで続きました。アメリカ本土でも、1920年に禁酒法が成立しています。
この禁酒法が施行されている間、違法にアルコール飲料を売買する闇業者がはびこったり、アメリカ本土においては、マフィアが暗躍するなど問題も多く、人々の反対の声が大きくなっていったことで、1933年、フランクリン・ルーズベルト大統領によって、禁酒法は効力をなくしました。
現在活躍するハワイの醸造所・蒸留酒製造所
現在、ハワイ産の酒類は多岐に渡り、ハワイ島、マウイ島、モロカイ島、オアフ島、カウアイ島に醸造所、あるいは蒸留酒製造所が設けられています。特にマウイ島、ハワイ島については、涼しい高地の気候を利用して、ぶどうの栽培を行うことで、ワインの製造も行われています。
(マウイ島産のワイン。右、KOLOAはカウアイ島産ラム)
(ハワイ島産のワイン)
その他、ハワイで栽培されている、グアバ、マンゴー、パッションフルーツ、コーヒー、ハチミツなど、ハワイならではの原料から作られたワイン、マリン氏がハワイにもたらしたパイナップルを原料にしたワインやウォッカ、そして、ハワイの歴史を背負うサトウキビから作られるラムも健在です。
(オアフ島で作られているウォッカ)
時代に即した新たな挑戦
現在ハワイで活躍している酒造メーカーの中でも、アルコール度数の高い蒸留酒を作ることができる企業は、新型コロナウイルスが世界的に広がり始めた2020年3月以降、ハワイ州内で入手が難しくなってきていたハンドサニタイザー(手指消毒液)の製造を始めました。
蒸留酒を作る過程で出るエタノールを利用したもので、アメリカ食品医薬品局の認証を受け、医療や救急現場、ホームレスシェルターなどに寄付されました。一般の人々の間でも、ハンドサニタイザーの入手が一時、大変困難な時期がありましたが、このようなハワイの酒造メーカーの努力もあり、スーパーマーケットなどに豊富に並ぶようになりました。
古代ポリネシア人が、カヌーでハワイに持ち寄ったサトウキビやキーが、外国人によりアルコール飲料となり、時代を経てそれは消毒液となって、ウイルスから人々を守る役割をも果たすようになりました。ハワイ産のお酒を見る機会、楽しむ機会があれば、少しその歴史を知っておくと、より興味深く思えてくるのではないでしょうか。
飲酒に関するハワイでのルールは、こちらをご確認ください。
(白黒写真はHawaii State Archivesより、その他、引用先の表示のないものはHawaii Historic Tour LLC所有。)
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ロバーツさゆりSayuri Roberts担当講師
東京生まれ。筑波大学・比較文化学類にて北米の歴史・文化を学び、英会話スクールの講師等を経て、結婚を機にハワイへ移住。Native Hawaiian Hospitality Association主催の歴史ツアー「Queen's Tour(当時)」に参加し、ツアーガイドの方に、日本語の通訳を頼まれたことから、2004年、ガイドとして登録、研修の上、日本語の歴史ツアーを始める。2006年、「Queen's Tour」の終了を機に、ツアーの継続について主催者の了承を得て、Hawaii Historic Tour LLCを発足、「ワイキキ歴史街道日本語ツアー(当時)」(その後「ワイキキ歴史街道ツアー」に改称)を開始。2007年、「ダウンタウン歴史街道ツアー」もスタート。テレビ、ラジオ、雑誌等、メディア出演多数。 『お母さんが教える子供の英語』(はまの出版)著者。
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