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所用時間5min
2021.08.27
サーフィンの衰退と復興
ここがポイント
古代から人々の生活に深く根付いていたサーフィンが、1700年代後半から1800年代中頃にかけて衰退してしまった原因を学びます。さらに、サーフィンの復興に尽力した人々を紹介します。
★こちらの講座をさらに詳しくご理解いただくために、
「古代の人々とサーフィン」
「王族とサーフィン」
これらの講座もぜひご参照ください。
現在では、サーフィンはハワイの代表的なスポーツとなっていますが、歴史の流れの中で、一時、サーフィンの命の灯は消えようとしていました。何があったのか、何がそうさせたのか、まずは1700年代後半から1800年代初頭のハワイの様子を見てみましょう。
西洋人の上陸が与えた影響と王族の決断
西暦1200年代以降、ポリネシアからの移民が途絶えてから、ハワイは独自の社会と文化を育んでいきました。そのような中、1778年、イギリス人のクック船長一行により発見されたハワイは、西洋、そして世界へとその存在が知られ、太平洋を渡る貿易船や探索船が、数多くハワイを訪れるようになります。
ハワイを訪れる西洋人との交流により、西洋の社会や文化に感化され、大きく影響を受けていたのが、カメハメハ大王の妃、カアフマヌ女王でした。ハワイの島々を王国として統一したカメハメハ大王は、外国人を側近に迎えながらも、ハワイ独自の習慣や文化を「カプ制度」により継続させていましたが、1819年に逝去。後継者となった若きカメハメハ2世よりも、摂政として政治的に大きな力を発揮する立場にあったカアフマヌ女王は、古代から続くハワイの習慣や文化を、ことごとく破棄する行動に出ました。
「カプ制度」については、こちらをご参照ください。
スポーツを後世に伝える役割を果たしていた「マカヒキ」の終焉
ハワイから消えてしまったものの一つには、「マカヒキ」がありました。10月中旬から2月中旬にかけては、戦争は禁止、そして、人々は日々の労働から解放され、サーフィンをはじめ、スポーツやゲームを思いきり楽しむことが許されます。戦士が体力や技術の維持のために、スポーツを競技として行ったり、後世にスポーツの技術を伝えるという、重要な役割を担っていたマカヒキでしたが、その機会が失われることになりました。スポーツの守護神であった神、ロノを含め、古代から続く神々への信仰も、神殿にあたるヘイアウがことごとく破壊されることで、信仰の継続自体が困難となっていきました。ダイヤモンドヘッドの裾野にあったサーフィンに関するヘイアウ、パパエナエナ(Papaʻenaʻena)も破壊されています。
宣教師の上陸
そのような中、1820年にアメリカ東海岸から宣教師の一団がハワイに到着し、信仰対象を失ったハワイの人々の間に、キリスト教が広まっていきます。ハワイ各地に教会が建てられ、王族も一般の人々も、教会で宣教師の話を定期的に聞くようになります。
サーフィンをする人々を目にした宣教師達は、「体をほぼ隠さない状態でサーフィンに興ずることは『モラル』に反する」とし、「サーフィンのような『荒い』スポーツは、命を落としたり、大怪我につながる」、さらには「働かなくなることで、貧困につながる」と人々に説き、サーフィンなどをする余暇の時間は、読み書きの学習*等に充てられるようになっていきました。
*宣教師達が、文字を持たないハワイ語にアルファベットを当てはめ、ハワイ語を文字で表現できるようにしました。
古代から続いてきた生活様式が一変し、宣教師による人々の「教育」が進み、さらには外国から持ち込まれた病気により、ハワイアンの人口が激減していった1800年代後半に向けて、ハワイで人々がサーフィンを楽しむ姿が見られる機会は、激減していきました。
復興の兆し
かつては、王族も一般の人々も楽しんでいたサーフィンの命の灯は、様々な力によって消え入りそうになりながらも、ごく一部の人々によって、その伝統は守られていました。1900年代に入る頃になると、ワイキキ、マウイ島、カウアイ島、ニイハウ島の一部で、サーフィンをする人の姿が見られるようになります。
1898年に刊行された旅行記『パラダイス・オブ・ザ・パシフィック』には、「数か月前まで、ホノルルではたった一人のハワイアンのみが、サーフボードを乗りこなせる人として知られていただけだった。しかし、ここ2、3か月の間に…白人もハワイアンも、大変上手に波を乗りこなすようになっていた」と記されています。
サーフィンの復興につながった出会い
サーフィンのさらなる復興の第一歩となったのが、ホノルル生まれで、後に南カリフォルニアで初めてサーフィンを教えた人物となったジョージ・ダグラス・フリースJr氏(George Douglas Freeth Jr.)と、サウスカロライナ州生まれの紀行作家、アレクサンダー・ヒューム・フォード氏(Alexander Hume Ford)の出会いでした。
(ジョージ・フリース氏)
ワイキキを拠点にサーフィンをしていたフリース氏が、当時ホノルルに居住していたフォード氏にサーフィンを教えたことがきっかけとなり、彼らの交流が始まります。さらにフォード氏が、ワイキキに滞在していた有名な文筆家、ジャック・ロンドン氏にサーフィンについて語ったことがきっかけとなり、ロンドン氏が書いた『ロイヤルスポーツ』という記事は世界に発信され、ハワイのサーフィンの様子を世界に広めました。
アウトリガー・カヌー・クラブの発足
先述のフォード氏はその後、ワイキキにてサーフィンの子供用クラスを主催したり、雑誌『Mid-Pacific Magazine』を刊行し、サーフィンを含めたハワイの文化を発信するなど、サーフィンの復興と普及に尽力し、「ハワイ・アウトリガー・カヌー・クラブ」の発足にも携わりました。
(アレクサンダー・ヒューム・フォード氏)
1908年5月1日、フォード氏を中心に結成された「アウトリガー・カヌー・クラブ」は、サーフィンとアウトリガー・カヌーの保存、永続を目的とした世界初の組織で、ワイキキの現ロイヤル・ハワイアン・ラグジュアリー・コレクション・リゾートのある場所を借り、拠点となる建物を建設しました。
(アウトリガー・カヌー・クラブの様子-1919年)
また、同年、デューク・カハナモク氏、ケン・ウィンター氏、ウィリアム・A・コトレル氏も「フイ・ナル・クラブ(Hui Nalu Club 波クラブ)」を結成し、海に関するアクティビティーの普及や教育を進めました。このクラブの会員は、ほぼ全員が生粋のハワイアン、またはハワイアンの血を引く人々で、初期の「ビーチボーイズ」の多くが、このクラブの会員でした。
(アウトリガー・カヌー・クラブが保管する数多くのサーフボード)
「ビーチボーイズ」の活躍
「ビーチボーイズ」とは、ライフガードであり、サーフィンや銛(もり)を使った漁の先生であり、またはミュージシャンであり…という、ビーチを訪れる人々を楽しませるとともに、ハワイの文化を守るという大切な役割を担った人々でした。この活動は、ビーチボーイズのメンバーにとっては仕事ではなく、仕事の合間に、わずかな賃金または無償で行っていた、ボランティアワークに近いもので、アロハ精神、ホスピタリティー(おもてなし)の精神によって行われていた活動でした。
(ビーチボーイズの一人、ジョニー・マクア氏(右))
1915年頃、フイ・ナル・クラブの会長ミラー氏が、ワイキキのモアナホテルとビーチの利用契約を結び、ホテルから海に向かって伸びる桟橋を含め、「ビーチボーイズ」が活動できるように場を整えました。
(モアナホテルから海に伸びる桟橋。1900年代初頭)
フイ・ナル・クラブの設立者となったデューク・カハナモク氏も、ビーチボーイズの初期のメンバーでした。
(デューク・カハナモク氏)
水泳のオリンピック選手として活躍する傍ら、世界へとサーフィンの存在を広めた立役者です。
デューク氏の活躍については、こちらをご参照ください。
アウトリガー・カヌー・クラブやフイ・ナル・クラブといった、ハワイの伝統を守り、そして継承する組織もでき、また、デューク・カハナモク氏をはじめ、サーフィンの普及に努める人々の活躍によって、サーフィンはしっかりと命を吹き返しました。ハワイから世界へと伝わったサーフィンは、ついにオリンピック競技の一つとなり、世界中のサーファーがその腕を競うスポーツへと、また一歩前進しました。
「古代の人々とサーフィン」
「王族とサーフィン」
これらの講座もぜひご参照ください。
現在では、サーフィンはハワイの代表的なスポーツとなっていますが、歴史の流れの中で、一時、サーフィンの命の灯は消えようとしていました。何があったのか、何がそうさせたのか、まずは1700年代後半から1800年代初頭のハワイの様子を見てみましょう。
西洋人の上陸が与えた影響と王族の決断
西暦1200年代以降、ポリネシアからの移民が途絶えてから、ハワイは独自の社会と文化を育んでいきました。そのような中、1778年、イギリス人のクック船長一行により発見されたハワイは、西洋、そして世界へとその存在が知られ、太平洋を渡る貿易船や探索船が、数多くハワイを訪れるようになります。
ハワイを訪れる西洋人との交流により、西洋の社会や文化に感化され、大きく影響を受けていたのが、カメハメハ大王の妃、カアフマヌ女王でした。ハワイの島々を王国として統一したカメハメハ大王は、外国人を側近に迎えながらも、ハワイ独自の習慣や文化を「カプ制度」により継続させていましたが、1819年に逝去。後継者となった若きカメハメハ2世よりも、摂政として政治的に大きな力を発揮する立場にあったカアフマヌ女王は、古代から続くハワイの習慣や文化を、ことごとく破棄する行動に出ました。
「カプ制度」については、こちらをご参照ください。
スポーツを後世に伝える役割を果たしていた「マカヒキ」の終焉
ハワイから消えてしまったものの一つには、「マカヒキ」がありました。10月中旬から2月中旬にかけては、戦争は禁止、そして、人々は日々の労働から解放され、サーフィンをはじめ、スポーツやゲームを思いきり楽しむことが許されます。戦士が体力や技術の維持のために、スポーツを競技として行ったり、後世にスポーツの技術を伝えるという、重要な役割を担っていたマカヒキでしたが、その機会が失われることになりました。スポーツの守護神であった神、ロノを含め、古代から続く神々への信仰も、神殿にあたるヘイアウがことごとく破壊されることで、信仰の継続自体が困難となっていきました。ダイヤモンドヘッドの裾野にあったサーフィンに関するヘイアウ、パパエナエナ(Papaʻenaʻena)も破壊されています。
宣教師の上陸
そのような中、1820年にアメリカ東海岸から宣教師の一団がハワイに到着し、信仰対象を失ったハワイの人々の間に、キリスト教が広まっていきます。ハワイ各地に教会が建てられ、王族も一般の人々も、教会で宣教師の話を定期的に聞くようになります。
サーフィンをする人々を目にした宣教師達は、「体をほぼ隠さない状態でサーフィンに興ずることは『モラル』に反する」とし、「サーフィンのような『荒い』スポーツは、命を落としたり、大怪我につながる」、さらには「働かなくなることで、貧困につながる」と人々に説き、サーフィンなどをする余暇の時間は、読み書きの学習*等に充てられるようになっていきました。
*宣教師達が、文字を持たないハワイ語にアルファベットを当てはめ、ハワイ語を文字で表現できるようにしました。
古代から続いてきた生活様式が一変し、宣教師による人々の「教育」が進み、さらには外国から持ち込まれた病気により、ハワイアンの人口が激減していった1800年代後半に向けて、ハワイで人々がサーフィンを楽しむ姿が見られる機会は、激減していきました。
復興の兆し
かつては、王族も一般の人々も楽しんでいたサーフィンの命の灯は、様々な力によって消え入りそうになりながらも、ごく一部の人々によって、その伝統は守られていました。1900年代に入る頃になると、ワイキキ、マウイ島、カウアイ島、ニイハウ島の一部で、サーフィンをする人の姿が見られるようになります。
1898年に刊行された旅行記『パラダイス・オブ・ザ・パシフィック』には、「数か月前まで、ホノルルではたった一人のハワイアンのみが、サーフボードを乗りこなせる人として知られていただけだった。しかし、ここ2、3か月の間に…白人もハワイアンも、大変上手に波を乗りこなすようになっていた」と記されています。
サーフィンの復興につながった出会い
サーフィンのさらなる復興の第一歩となったのが、ホノルル生まれで、後に南カリフォルニアで初めてサーフィンを教えた人物となったジョージ・ダグラス・フリースJr氏(George Douglas Freeth Jr.)と、サウスカロライナ州生まれの紀行作家、アレクサンダー・ヒューム・フォード氏(Alexander Hume Ford)の出会いでした。
(ジョージ・フリース氏)
ワイキキを拠点にサーフィンをしていたフリース氏が、当時ホノルルに居住していたフォード氏にサーフィンを教えたことがきっかけとなり、彼らの交流が始まります。さらにフォード氏が、ワイキキに滞在していた有名な文筆家、ジャック・ロンドン氏にサーフィンについて語ったことがきっかけとなり、ロンドン氏が書いた『ロイヤルスポーツ』という記事は世界に発信され、ハワイのサーフィンの様子を世界に広めました。
アウトリガー・カヌー・クラブの発足
先述のフォード氏はその後、ワイキキにてサーフィンの子供用クラスを主催したり、雑誌『Mid-Pacific Magazine』を刊行し、サーフィンを含めたハワイの文化を発信するなど、サーフィンの復興と普及に尽力し、「ハワイ・アウトリガー・カヌー・クラブ」の発足にも携わりました。
(アレクサンダー・ヒューム・フォード氏)
1908年5月1日、フォード氏を中心に結成された「アウトリガー・カヌー・クラブ」は、サーフィンとアウトリガー・カヌーの保存、永続を目的とした世界初の組織で、ワイキキの現ロイヤル・ハワイアン・ラグジュアリー・コレクション・リゾートのある場所を借り、拠点となる建物を建設しました。
(アウトリガー・カヌー・クラブの様子-1919年)
また、同年、デューク・カハナモク氏、ケン・ウィンター氏、ウィリアム・A・コトレル氏も「フイ・ナル・クラブ(Hui Nalu Club 波クラブ)」を結成し、海に関するアクティビティーの普及や教育を進めました。このクラブの会員は、ほぼ全員が生粋のハワイアン、またはハワイアンの血を引く人々で、初期の「ビーチボーイズ」の多くが、このクラブの会員でした。
(アウトリガー・カヌー・クラブが保管する数多くのサーフボード)
「ビーチボーイズ」の活躍
「ビーチボーイズ」とは、ライフガードであり、サーフィンや銛(もり)を使った漁の先生であり、またはミュージシャンであり…という、ビーチを訪れる人々を楽しませるとともに、ハワイの文化を守るという大切な役割を担った人々でした。この活動は、ビーチボーイズのメンバーにとっては仕事ではなく、仕事の合間に、わずかな賃金または無償で行っていた、ボランティアワークに近いもので、アロハ精神、ホスピタリティー(おもてなし)の精神によって行われていた活動でした。
(ビーチボーイズの一人、ジョニー・マクア氏(右))
1915年頃、フイ・ナル・クラブの会長ミラー氏が、ワイキキのモアナホテルとビーチの利用契約を結び、ホテルから海に向かって伸びる桟橋を含め、「ビーチボーイズ」が活動できるように場を整えました。
(モアナホテルから海に伸びる桟橋。1900年代初頭)
フイ・ナル・クラブの設立者となったデューク・カハナモク氏も、ビーチボーイズの初期のメンバーでした。
(デューク・カハナモク氏)
水泳のオリンピック選手として活躍する傍ら、世界へとサーフィンの存在を広めた立役者です。
デューク氏の活躍については、こちらをご参照ください。
アウトリガー・カヌー・クラブやフイ・ナル・クラブといった、ハワイの伝統を守り、そして継承する組織もでき、また、デューク・カハナモク氏をはじめ、サーフィンの普及に努める人々の活躍によって、サーフィンはしっかりと命を吹き返しました。ハワイから世界へと伝わったサーフィンは、ついにオリンピック競技の一つとなり、世界中のサーファーがその腕を競うスポーツへと、また一歩前進しました。
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ロバーツさゆりSayuri Roberts担当講師
東京生まれ。筑波大学・比較文化学類にて北米の歴史・文化を学び、英会話スクールの講師等を経て、結婚を機にハワイへ移住。Native Hawaiian Hospitality Association主催の歴史ツアー「Queen's Tour(当時)」に参加し、ツアーガイドの方に、日本語の通訳を頼まれたことから、2004年、ガイドとして登録、研修の上、日本語の歴史ツアーを始める。2006年、「Queen's Tour」の終了を機に、ツアーの継続について主催者の了承を得て、Hawaii Historic Tour LLCを発足、「ワイキキ歴史街道日本語ツアー(当時)」(その後「ワイキキ歴史街道ツアー」に改称)を開始。2007年、「ダウンタウン歴史街道ツアー」もスタート。テレビ、ラジオ、雑誌等、メディア出演多数。 『お母さんが教える子供の英語』(はまの出版)著者。
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